20030523

最近、お風呂で暮しの手帖社の「スポック博士のティーンエイジャーのための性教育」という本を読んでいる。
「お風呂でなんという本を読んでるのだ!」などと、お風呂→裸→性教育という単純な図式で顔色を変えるような純粋な人もいたわけだけど、理由は、単純にビニールカバーが付いていて水に濡れても大して気にしなくてすむ、というだけのことである。
それにしても、わたしは十代向けの小説や哲学書や解説書が大好きで、それってもしや自らの知能の問題かとも思うのだけど、実は非常に繊細な書かれ方をしているからだ、とも思う。
大人向けの本というものは(つまり、大人に向けて書いていることを作者がことさらに意識しているような本は)慨してひとりよがりだったりすることがあって、それは、社会に出ると職種や趣味嗜好など、自分に近い人とばかりいるようになるからだという気がする。
学校や近所などの半ば不可抗力の集団に属し続けなければならない場合の、感覚の齟齬に対する理解力は失いたくないものだ。
それは、サバイバル術などのテクニックであってはならないとも思う。

まあ、それはそれとしてこの「Dr. Benjamin Spock A Teenager's Guide to Life and Love」という本だけども、もちろんいくつかのズレなり博士のバックグラウンド、ひいてはお人柄が透けて見える感じは否めない。
1970年という、大人、ウゼェ&フリーセックス最高!な時代に「ここはひとつ十代向けの「正しい」性教育の本を書かにゃあならんて」などと思った(多分)、教育者としては真っ当だけど単純すぎる感のあるスポック博士の、「ピューリタニズムと言われようとも、これがわたしだし、これが変わったといってもまだまだ変わらん世の中の声なのだよ。もちろんこの本の性格をはっきりするために敢えて実際のわたしより固いことも書いちゃったけどね」風スタンスが鼻についてしまって、「スポック博士の育児書」をバイブルに育てられた70年生まれの、80〜90年までが十代だったわたしですら、ちょっとウゼェと思ったりもする。
それと同時に、多岐にわたる人間なり自然なりの有象無形に対して勝手な言い切りをして、それを前提にしなきゃ何も進まない「学問」の不幸も感じたりもする。

知(ち)って、既成概念とか世のことわりを捏造したり教唆したり追随するためのものじゃなくて、間違いもアリの多様性を認める楽しくて生き生きした世の中をつくるためのもんじゃないのお、実際できるかどうかは別としても、あ、でもここまで書いて思ったけど、スポック博士って多分当時ですら超保守派で業界内でも「終わってる」人だったのかもしれない。
今でもとっくに「終わってる」のに権威という大樹の影によるのが上手くてなぜか10年も20年も延命してる人っているわけだから。

まあいいや、それはそれとしてわたしはここでもっと「正しい読者」したいのだ。
それは作者がどうとか時代がどうとかいうよりも、書かれた内容を自分に投影して感情移入してしまう感じ、烏合の衆、サイレント・マジョリティ、あの衆ら(すみません、単なる静岡弁です、初めて聞いたときびっくりしたので)その他もろもろなんでもいいや、純粋に読んで「これってわたしかも」とか「これってふつうなの?」、もっと言うと最近自分の身に起こった精神上のリョージョク事件(大げさな)をこの本とからめてみたいと思ったりもしたわけだ。

例えばその事件というのは、この本でいうところの「男がよくやる手」で「『だってきみはぼくを好きだといったじゃないか…なにがわるいんだい…きみ、なんにも感じないのかい…いやだなんて、ちょっとヘンだぞ…どの女の子もみんなやってるじゃないか…ぼくのこういったところがイヤなら、もうきみとのデートはこれっきりだ…男には強い本能があって、がまんできないんだよ』とおしつめてくる」(本書引用。以下同)ようなことだったわけだけども、それが知りあって10年以上経つ関係の、信頼してた50近い人で、且つ相手はそこまでわたしに打撃を与えたとは思っていず、良好な反応だったと思っているはずなのも含め、非常に後味の悪い体験ではあったわけだ。
こういう人は、言を右左して相手を振り回し、ちょっとできたすき間に入り込んでくるようなところがあって、そのとき「たやすく議論に引き入れられるのは、心の奥底でじぶんに自信が持てないからです。(中略)たいして好きでもない男にもてたいからといって、ほんとうに愛する人のためにとっておきたいと思っているものを、むざむざとすててしまうことはない」と考えて毅然とした態度をとれなかった自分も「自尊心のかけらまで犠牲にする」「じつにおろかな取引」をしたと痛感してしまったわけですな。
でも、どうしてそんな羽目に陥ったのかと振り返ってみるに、「いちどのぼせ上がると、もう、相手がじぶんを愛しているのか、趣味が合うのか、お互いにかけがえのない人間なのか、すべてを投げ出しても悔いはないのか、といったことを考える余裕が」なくなるような短絡的思考回路と、男の人の常識的且つ普遍的なささいな嗜好を発見しただけで「ペテン師のようにみえて、すっかり失望し、腹が立ち、打ちのめしてやりたいような気持ちに駆られる」わたしの幼児性だったり、「失恋したとおもいたくないから、それを打ち消すために、<反動的に>急に別の人に夢中になったりしやす」い刹那主義的行動と、「絶対に分からないという自信があるときは相手を欺いてもいい」といった処世術の欠如と、「往々にして、特殊すぎて相手がのってこれないようなテーマとか趣味とかを、夢中でしゃべりつづけたり」しがちなおめでたい感じをミックスしたわたし自身の、絶妙なハーモニーの賜物だと、思えないでもないのだからつける薬がない。

まあ、それやこれやでひとり若者向けの性教育本を手に、落ち込んでれば世話はないのだが、最後にひとつだけ。
「肌をみせるような服をつけていたり、誘惑的な態度をとる女性は、最高の性感を持っていると考えがちです。しかし、ふつうこれは大ちがいです」とだけ言わせてくれ(引用しといてアレだけど、最高の性感って何?好色という意味?それとも逆に露出気味の人は不感症だと言いたいのか?)。

※例えば、以降「」内は引用で、できるかぎり原文と表記を一致させたが、原文自体に統一がなされてないのが<例:激しい、人、自分など>この出版社のナゾのひとつ。

20030519

さて、ここで買い物懺悔をいたしたいと存じます。
万一わたくしと直接知り合いの方がこちらを見た場合でも、何とぞ何とぞ責めないでくださいませ。
人間とはかくも弱き存在なのでございます・・・。
買い物と申しましても、これはもうほぼ着物関連に絞られてまいります。
昔は敷居の高かった着物も昨今では各駅停車感覚、軽い気持ちで風潮に乗りましたところ、ただでさえ洋服より身に付けるものが多ございますうえ、価格も相応でありますゆえ、わたくしの吹けば飛ぶような通帳に大打撃を被ることになりましたことは想像に難くないと存じます。
とはいえ、五千円台以上のものには手を出さないという自分なりの規則を設けてはおります。
前置きはこのくらいにいたしまして、懺悔へとまいります。
くれぐれも、わたくしを責めることができますのは天の神さまだけだということを、肝に銘じてお読み下さいませ。

1. わたくしがヤフーオークションで最初に購入いたしました着物関連の商品は、羽織でございます。正絹で、白、桃、薄桃、若草、鴬の五色の亀甲柄で染められ、毘沙門亀甲の地模様が入っている美しいもので、まさに一目惚れでございました。幸いにして、未使用品でございます。

2. 次に購入いたしましたのも、実に羽織でございます。どうもわたくしは羽織に弱いようでございまして、特に着物が地味好みですので、羽織や帯で遊び心を出したいと思いますと、どうも目がいってしまうのでございます。こちらは素材は不確かでございますが、黒と赤で竹と菊を染め抜いたはっきりとした模様が美しい一品でございます。

3. そして長襦袢にまいります。綿製でかなり古いもののようでございますが、全体に薄桃の桜の花びらが舞い、鳶色と桃で円形に桜を意匠して配した図柄が甘やかな印象です。

4. 帯締めも揃えなくては、ということで十本組みのものを購入いたしました。朱と白の縞、浅黄に白の水玉、藤色など、締めやすい色味ばかりでございます。

5. いよいよ着物を購入いたしました。わたくしの家紋は揚羽之蝶ゆえ、着物を着るときも蝶を主題にしたいと考えておりますが、正絹製で黒地に蝶が(触覚が妙に長いので蛾に見えますが)舞う小紋は、丈がどうやっても足りないのでございます。このような間違いも初心者らしくてよろしいですわね、おほゝゝゝゝ。

6. さて次は帯でございます。刈安色に朱と銀で波型の縞が描かれた大胆な図柄でございます。かように過激なものを購入したわたくし自身の心根が今となっては理解不可能ですが、多分インスピレーションが湧いたのでございましょう。

7. さらなる帯は、もう眺めているだけで嬉しくなるほど一番気に入っている、桃色の牡丹柄の名古屋帯でございます。花の一部に刺繍が施されており、色合いといい、柄といい、文句なしの逸品でございます。

8. ふたつめの蝶のもの、帯でございます。黒地に白、朱、浅黄、水色などの蝶の簡単な輪郭が刺繍されていて、町娘風な可憐な印象です。格子などの着物に合わせたいものでございます。

9. 帯道楽がそろそろ爆発し始めまして、四つ目の帯は鬱金地に大輪の牡丹の咲いたものでございます。わたくしは牡丹柄にすこぶる弱いようで、他にもいくつか購入いたしましたので、着物も帯も羽織も牡丹づくしという着こなしが実現するかも知れませぬ。

10. 9の帯と同時に同じ出品者から孔雀の羽模様の帯も手に入れました。と申しましても、くすんだ白地に銀と山吹の糸で全体に模様が描かれているので、さして派手なものではなく、藤、藍、鬱金など、どんな色の着物にも馴染む使い勝手の良いもののひとつと思われます。

11. 次に購入したものも、ああ牡丹柄でございます。黒字に鮮やかな牡丹色(当世風で申すところのショッキングピンク)で牡丹が描かれた、通称「毒婦」帯でして、よほど地味な着物と合わせませんと危険な感じがいたします。

12. これから夏めいてくるというこの時期に着物を購入いたしましても、なかなか着る機会がございません。そこで、夏の着物といえば浴衣だと思い、現代物の浴衣を購入いたしました。下駄、帯、巾着まで付いて驚くほど安価ですので、かえって値段を言われぬほどでございますが、ひとまず練習も兼ねてたくさん着ようと目論んでおります。

13. そして、また羽織でございます。昨今で一番人気の銘仙はわたくしの趣味とは少し違うのですが、この羽織は一目で気に入ってしまいました。白地に桃、薄桃、朱、灰で菊模様や野草、川(?)が描かれています。ところどころに鴬で菊模様がなぞられていて、絶妙な色合わせでございます。鴬の着物と合わせたら映えるのではないでしょうか。

14. またまた羽織でございます。しかも牡丹柄でございます。黒字にきらきらしい銀と桃で牡丹が描かれ、極道路線ど真ん中、で「毒婦」帯と合わせたらほぼ石を投げられるとみて間違いないかと思います。が、このような組み合わせの難しいものをうまく着こなせたらきっと楽しいだろうと夢を見てしまったのでございます。

15. 「三重県の旧家から出た」と謳われていた繻子製の名古屋帯で、白地に朱や鴬で中国のような幾何模様が付いています。なかなか派手ですが、この場合は合わせる着物もある程度にぎやかなものの方がよろしいように思います。

16. そして、また羽織でございます。銘仙で、鮮やかなトルコブルーに牡丹色で絣のような模様が入っています。こちらは今人気の「アンティーク着物」の王道といった雰囲気があります。

今日現在、わたくしの懺悔はここまででございます。

ただ、先日近所の古着物屋さんに参りましたところ、わたくしの場合は丈がありますのでやはり着物は現代物できちっと仕立てたほうがよいのではないか、と助言いただき、確かにそのような気もいたしますので、正直懐具合がさらに寒々しくなる不吉な予感がいたしますところで、ひとまず筆を置きたいのでございます。

20030513

現存する作家の中で唯一出版されたら買って読む金井美恵子の『待つこと、忘れること?』を読了。
相変わらず好きだけど、文章も年をとるのだと当たり前のことに少しがく然とする。
「ほのめかすという書き方も生き方も、『いやだ』と、まだ若かった私は思い、今も、そう思」っているのに、存外、ほのめかしが多いように思うのはなんだか鼻白まないでもない。
これはそれとも「意識の流れ」のつもりなのか、だとしたら意識の中でも0.数秒で人間は皮肉や何かを匂わすことをチラリと考えることはあるから、やはりそれもほのめかしに感じる。

好きだからこそ批判してしまうファン心理というものは非常に厄介で、自分でも持て余してしまうものだけど、やはり金井美恵子の本といえば姉の金井久美子の挿絵と装幀なわけで、この人も金井美恵子の本以外ほとんど見かけることがなくて(もしかしたら友人の本でも仕事しているかも知れないけど)ときどき展覧会を開催しているようだけど、それにしても一体どうやって暮らしているのかと見るたびについ下衆の勘繰りしてしまう(「画家」の叔父がわたしにいるが、彼のように画廊がついてお財布代わりになっているのか)。
明らかに稼ぎのいい妹が、姉の言うことをきいている感じも気になる。

そして装幀の仕事を少しばかりしている身として、こういった宮部みゆきレベルでない文学書の装幀予算は一体いくらなのかはわからないけど、台によって色を変えて4色ページが大量に挟まっているのはなんなんだろうとか、ベストセラーにはならないまでも業界内ファンの多い姉妹のことだから、予算はわりと融通が利いていて、ふたりで「こうしたらいいんじゃない?」「あ、かわいい」みたく千代紙でも選ぶようなつもりで「楽しんで」おられる姿が、なんとなく思い浮かぶ。
これって、本書の中にある「人の結婚生活を『ままごとみたい』と笑う、生活に疲れた『馬鹿ババァ』(ここのところの罵詈雑言はポイントなのでもう少しひねりが欲しかった)」と同じ発想?

でも、これは「画家の姉と小説家の妹と、愛猫トラーが腕を振るった44皿」の料理にまつわるエッセイなわけで、「料理に何の興味もない」と言い続けて33年のわたしに、にわか料理ブームが到来したのはこの本のおかげだし、ところどころに入る少女・金井美恵子のエピソード(国語の教師が教科書にある「なるほど、という言葉を子供がつかうのは生意気に聞こえる」個所を読んだところで、間髪を入れず「ナルホド」と合いの手を入れたら、烈火のごとく怒り狂って悪口をわめきちらした話など)は文句なしにかわいいし、好きなものに対して際限なくあだ名を付けるわたしにとって、丸まっている愛猫トラーを「巨大タロイモ」と呼んだり、長く延びて眠っているさまを「ブッシュ・ド・ノエル」と呼んだりする感覚は手袋のようにぴったりと馴染む。

それにしても「オヤジ」や「ババァ」を生理的嫌悪の対象として書くのは、もともと排他的で閉鎖的で自分の感性大好きな「乙女」に相容れない自分を差し引いても、客観的に、つまり年齢的にもう無理があるのではないか、と思わないでもない。

最後に「インターネット上のクソ文章」という一文は、嫌いなものでもつい見てしまう女の「性」みたいで、女として思い当たり、思わず目を細めさせたことを付記しておこう。