20101027

 来た、来た。
 開店と同時にどこからともなく姿を現したのは、近所のさびれた商店街にある村山時計店の次男だ。
 といっても、店は五十になる兄がやっていて、こいつは四十半ばでいまだ独身、家族のなかじゃ、まあほぼいないことになってる。
 世間でよく見かける出来のいい兄貴と不出来な弟という組み合せで、職人気質の父親が何かと冷たくあたり、そのぶん母親が猫かわいがりするという、無頼の徒を培養するにはこれ以上望むべくもないような環境に育ったおかげで、今ではあきれるほどの巨体をゆすりながら昼夜を問わず界隈をうろつくご身分だ。
 今日も今日とて時節にかまわずお決まりのスウェット上下姿で、薄いニキビ痕のついたでこぼこした頬に汗の玉を光らせている。
「よっ」
 村山の挨拶に、かすかにうなずきはしたもののB-3ははかばかしい反応を示さない。
 B-3って奴は言語とかアイコンタクトとかいったホモサピエンスが20万年がとこかけて研磨してきた伝達手段の必要性をはなから認めず、もしどうしてもそれらに頼らざるを得ない場面に遭遇したときは、必要最小限の言葉というよりは何らかの可聴音にて意思の疎通をはかるのがならわしらしい。
 少しでも声帯を震わせたり、首を相手の方に回したりするとエネルギーを大量消費すると考えているのかもしれんが、本当のところはよくわからん。
「いいもん、買ってきた」
 と、隣のパン屋『朝日堂』の茶色い紙袋を振りかざすが、村山の言う「いいもん」は、決まってあんドーナツだ。
 奴なりにささやかな貢ぎ物のつもりらしいが、かといってB-3の好物を持ってくるでなし、結局は自分の好みが優先するとみえる。
 それを合図にB-3がレジ横にある真っ赤なポータブルテレビを点けると、どっと笑い声が響いて、ニュースの前の中途半端なバラエティが始まった。
 ひび割れの走るコンクリートのたたきに、咀嚼音とテレビの笑い声が響く。
 二人が競うように水も飲まずに十個入りのあんドーナツをもくもくと食べてる姿はオットセイのえさの時間を思わせる。
 一瞬、誰かが青いバケツから投げてやったのかと見まごうほどだ。
 食べ終わると、村山は砂糖のついた指がカウンターに触らないよう両手の平の下の方だけをついて腰をひき、力一杯押すような姿勢をとりながら、かかとだけで立って、テレビとB-3を落ち着きなく交互に見やる。
 B-3が画面から目を離してこちらを向く機会を捉えようと心待ちにしているわけだが、そんな恩寵にはいつまで待っても授かれないと悟ると、おもむろに腿の辺りに指をこすりつけ、
「よし」
と小声で意味不明な掛け声をかけて、店内をのっそりのっそり歩き始めた。
 まず、入って右側の棚に並べられた、それこそ何百回も見ているはずの「絶倫パワー ブラック コンドーム STRONG イボ付き」を手にとる。
 試みに
「これ、新しんじゃん?」
と、レジに向かって声をかけてみるが、B-3は微動だにしない。
 ああなっちまうと、奴さんは書き割りの背景の一部みたいなもんなんだ。
 村山もそれは知っていて、袋を箱に戻すと、花園の小妖精とでもいった風情で、目についた花を手折るように何かつまみ上げては仔細に検分し(その手がまた変に白くて指が長い)、光のあたり具合を調節しているのか左右にかしげ、思い入れよろしく眺め始める。
 これも、奴のドロドロした血液のなかにちょびっとはあるらしい時計職人のDNAのなせる技か。
 願わくば、もう少しましなものに発揮してもらいたいもんだ。
 そのうち奥の雑誌コーナーにのんびりと吸い込まれるが、いやしくもここが奴の定位置で、入ったが最後、足を床にボルトで留めつけたくらいにしてたっぷり一時間ほどは出てこない。
 そして、店は沈黙に入る。
 ある意味じゃ、こうなってはじめて俺の一日が始まると言っていい。
 俺がお喋りだって? けっこう、けっこう、俺はこうやって俺を楽しませて来たんだ。
 毎日毎週同じ番組を繰り返し観るような人生で満足しているあいつらと一緒にされちゃ、たまったもんじゃない。

 ……まあ、とはいえ、同じような時間帯に同じような考えが灰色の脳細胞を駆け巡るのは無理からぬことだ。
 例えばいつも思うんだが、「大人のおもちゃ」という店名はすこぶる面妖だ。
 店名でもなんでもないということはひとまず置いておくとしても、「おもちゃ」という楽しげで無垢な響きに「大人の」などと露悪的な形容詞をつける感覚はどう控えめに見ても下卑ている。
 お陰で、店の前を親子連れが通るときには、避けがたいお笑い草が何度となく繰り返される羽目になる。
 つまり、親が足を早めて通り過ぎようとするのと反対に、子供は極端に歩みを遅めて、ヒラヒラの垂れ下がった奥をなんとかのぞき見ようと四苦八苦するというわけだ。
 ひどいときは
「パパー、見て見て、おもちゃ屋さんだよ!」
 と、何を言っても許される特権階級然としたガキが甘え声を張り上げる。
 父親も父親で、なぜか大人代表で恥を着せられたような気になって、
「おまえには関係ない」
とかなんとか聞き取れないほど小さい声でつぶやいたなり、やっきになって子供の手を引っ張る。
 なあに、子供はおもちゃ屋じゃないなんてことは先刻ご承知、無邪気を装ってあわよくば中を見てやろうと思っているだけだ。
 こういう場合は、増長を食い止めるためにも、こちらが一点の緩みもない毅然とした態度をとらにゃいかん。
 そういえば、先日の父親は瞠目に値したな。
 短髪をヘアワックスで立てて黒縁メガネをかけた三十そこそこの奴で、サラリーマンの休日3点セット、ポロシャツ、短パン、サンダル履きで前の道をそぞろ歩いていたんだが、その周りを小型犬のようにまとわりついているのは、年のころは六歳くらいの小生意気そうな子供だ。
 その年齢によく見られるようにサイズの大きすぎるTシャツにコットンパンツを穿いて、自らの愛らしさを誇示するがごとく大きな目をさらに見開き、キョロキョロと周囲を見渡していたんだが、そのうち、ふと看板に目をやると、
  「パパー、見て見て、おもちゃ屋さんだよ」
  と例によって仮借のないキィキィ声を出しやがった。
 俺は、また茶番劇を観せられるのかとうんざりし、認知神経心理学的に言うところの思考のマスキングに入ろうとした(有り体に言って、店の真ん中に佇む棚を透かしてその奥に並べてある雑誌のタイトルに意識を集中した)んだが、奴は凡百の親とは違った。
 すかさず
 「よし、入るか。コウタはもうすぐ誕生日だったな、好きなもの選んでいいぞ」
と、率先して手をひっぱる気概を見せたわけだ。

20101025

 奴さんのことを、俺は密かにB-3と呼んでいる(べつに密かにする必要もないんだが)。
 B-3というのは、アメリカ空軍のウェアや時計を製造しているAVILEX社のムートンジャケットの型番で、表はなめした皮革製、裏は防寒のためにびっしりと羊毛のボアをはりめぐらしてある、奴さんの冬の愛用品だ。
 二十年ほど前、このジャケットが二十代の男どもにやたらと流行したことがあって、どうやらそのころ購入に及んだとみえる。
 襟にはベルトがついていて、例えば気の狂ったリッパー将軍の命令で急きょ零下五十度のロシアに攻撃をしかける必要にせまられたときなどには、それを締めることで首元を暖かく包むこともできるのだが、真冬の最低気温がせいぜい零下三度の大田区蒲田じゃあまず使用する機会はなく、襟は腹の裏側を見せてだらしなく広がっているのみ。
 表の革もところどころ禿げて、その道五十年の漁師のおっさんの手の甲の肌もかくやと思うほどのこなれた様相を呈している。
 脱いだところを見たら袖付けの裏のボアが半分以上取れかかっていたくらいのもんだが、それでも奴さんにとっては携帯可能な青春のよすがともいうべき大切なものらしく、ほこりだらけのカウンターにしばらく置いておいただけで親の敵みたいに狂ったように振りはらうさまは一幕の良質なパントマイムとでも言おうか、ともかくことこのジャケットとなると、どこにこんな繊細さがあったのかと驚くほどの神経を使う。
 奴のなかでは、一枚の服というより動かしがたいひとつの信念とか幾多の危機をともに乗り越えた盟友とでもいうような、他人からは窺い知れないものにまで昇華しているらしい。
 とはいえ、この日は六月でも暑いくらいだったから、さすがのB-3も永の相棒は伴わず、上半身は定番のBVDのTシャツ、下はウェスト部分にゴムが通ったやけに派手な赤い短パン、茶色いビニール製のつっかけサンダルといういでたちに、「ロベルト」と書かれた本物か偽物かといった論をたやすく退けるような百人中百人が聞いたことのないブランド名のセカンドバッグをコーディネートしている。
 それは、ある日をさかいに突然隆起し、気づいたときには遅きに失した態の、元来痩せ型だった人間によくある小山のような腹や、額から五センチほど退却を迫られたもののそれより下ならいくらでも伸びることができるとばかりに肩まで垂れた頭髪に、こころ憎いまでに似合っていた。
 B-3はその「ロベルト」のバッグをレジ台に投げるように置くと、緑色の地に黄色の、さしたる深い理由もないままなぜかちょっとおどけたような書体で「大人のオモチャ」と書かれた看板を表に引きずり出し、プラグを外のコンセントに差す。
 とたんに、アフリカの草原に移し替えても遜色ない見事な夕日を従えた看板は、一種叙情的な効果を発揮する。
 果たせるかな、こうして自由に描ける真っ白なキャンバスと見せかけて、その実、身の毛もよだつ凄まじい一日が幕を開けたわけだ。

 奴さんと暮らすようになっておよそ二年になる。
 やれやれ。
 それは、ノアの箱船に嵐が来て慌てて船の横にくっついていた緊急避難用ボートに乗り込んだら二人きりで、そのまま千年も茫漠たる海を航海しているみたいなもんだ。
 カモメに石を投げたり、イルカを捕ろうと群れにやみくもに棒っ切れを突き刺そうとして失敗し、怒らせて逆にボートを転覆させられそうになったりしている間に、最初はなんの共通項もなかった二人に不思議な友情といえなくもないほのかな同志愛が芽生えてくる、といった展開がそうした場合の常で、俺とB-3も残念ながら(まったく残念なことだが)類型を免れない。
 互いに好き嫌いを言う暇もあらばこそ、運命の手引きでいまやひとつ鞘におさまった豆のごとしというやつで、例えば普段奴さんが店に来る前にどんなことをしているかなんてことは、容易に像を結ぶ。
 店から五分とかからない場所にある、両親の経営するアパート「ラ・レジダンス・ドVIP 蒲田パート2」(築三十年の木造モルタル二階建て)二〇五号室に居を定めて早二十余年。
 六畳一間の中央に敷いた万年床から起き上がると、寝巻のままテレビを点けてほぼ半日、動かざること巌となったさざれ石のごとくといった態で鑑賞に及び、「狙われる暗証番号…盗み見&超小型カメラ」やら「合法ドラッグの違法性ー渋谷の若者は今ー」やら扇情的なアナウンスで垂れ流されるワイドショー的ニュースが終わったあたりで一念発起、のろのろと家を出て三十分か四十分遅れで店に来る。
 おおむねそんなところだろう。
 店の客は多くて日に十人足らず、少ないときは一人も来ない。
 ときどきひやかしの若いカップルなんかも入ってくるが、基本的には店主と同じく世の中の問題にはことごとく素通りされる手合いだ。
 商品も、ほとんど変化なし。
 今のところまだメーカーの営業地図にこの店は存在するらしく、頭に卵の殻がついているようななりたてとおぼしき担当営業が最新式の多機能オモチャを持って来て、七種類のバイブ機能プラス八種類のスウィング機能付きでカートリッジ式電池ボックスだから電池の取り替えも簡単なんです! と立板に水のごとくまくしたてて売り込みに来たりもするが、B-3はほぼ興味を示さない。
 よっぽど安価だったり(中国の愛らしい女工さんの働きのおかげで二四五円のローターなんてものもある)、押し切られたりしない限りは大抵断っちまう。
 そんな調子だから、この店では保証期間もとうに過ぎた十年選手、十五年選手も珍しくないわけで、キリストの聖骸布やソールズベリーのストーンヘンジのごとく考古学的神秘に包まれた遺物の風格を漂わせるものすら存在する。
 俺は二年ほど前に三人の仲間とともにこの店に来た。
 メーカーの今北産業がオレに付けた名前は「白熊くん」。
 女性の自慰用のオモチャ、俗にいうバイブレーターだ。
 ボディはパールホワイト、先端には、頭頂部が禿げて波うつほど長い髪と顎髭が交じり合って垂れ下がっている爺さんの顔が刻まれ、福禄寿よろしくにっこり笑っている。
 本体の足下には気のきいた洒落のつもりか栗を持ったリスまで鎮座ましまして、うっかりしてると福でもさずかりそうな様相だが、これは子供だましな表面の細工であって、俺自身とは関係ない。
 もちろん、白熊ともだ。
 心服の友二人とは最初の半年で別れ、ひとり残った俺は箱から出されて、ご大層にガラス棚に飾られる羽目になった。
 いわゆる、現品限り! というやつだ。
 ガラス棚は必要とあらばB-3に言って鍵を開けてもらうことが可能で(ここだけの話だが、扉にぶら下がってる錠前はお飾りで、本当にかかっちゃいない)、手にとって造形美にうっとりしたり、スイッチを入れて繊細にして巧緻に長けた俺の妖艶な動きを目の当たりにできる。
 その道に熟達した者なら、一目見ただけで七一四十円で手に入れられるものとしては最良の部類に入ると認めざるを得ないだろう。
 プレゼントしたときの彼女の表情を想像して欣喜雀躍、レジまで一目散することうけあいだ。
 だが、まあ、今のところそういった例はない。
 ガラス棚の中でうっすらとほこりのベールをかぶりつつ、来るべき日を待って超然と佇立するのみ。
 とは言うものの、決して無駄に時間を過ごしているわけじゃない。
 レジの隣りのこの場所は入り口の外から店の奥まで見渡せて、注意さえ怠らなければけっこう世間を知ることができるし、実のところ今ではこの店に欠くべからざる存在とでもいうか、何かあったらそのときは俺が必ず守るといった一種崇高な使命を帯びた守り神のような気持ちにすら駆られているのだ。

20101024

ふと思い立ったので、6年ほど前に書いた読み物を数回に分けて掲載していこうかと思います。
タイトルはまだなく、一章だか二章だかくらいしかありません。
今後、何らかのモチベーションが高まれば続きを書くかもしれません。
「白熊くん」という商品名を持つバイブレーターの冒険記で、野崎孝訳のサリンジャー的口調でやってみました。
一気に掲載するには長いので適当なところで切って続けます。
こちらからは以上です。


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 本当のことを言って、俺がこの話を格別にしたがっていると思われるのは困る。
 今日という一日をそれこそ最初から最後まで順を追って話すとなれば、「汝自身の胸に問うて式」の正直さをもって執り行わなずにはいられないすこぶる厄介な性癖が、時節をわきまえず顔を出すだろうことは自明の理だし、そうなれば俺にとって若干ばつの悪い場面もおいそれと省くわけにはいかず、となると話し手の人となりに関してある種懐疑的な見方をする不届者が出てくるとも限らんのだ。
 何がいやって、例えば俺のささやかな冒険談のなかの数少ない血湧き肉踊る情景をまさに光彩陸離たる描写でやっているときに、聞き手のひとりに、ちょっと小鼻の端を掻いたその手の動きを意地でも見逃すまいと言わんばかりに凝視されたりなんかすることほど、腹立たしいことはない。
 あるいは、震えがくるほど緊迫する場面で、秒単位まで計算し尽くした効果的な静寂を挟んでいるときに、女性がよくやるように「それ、誰が言ったの?」だとか「そのときその人どんな服着てた?」だとか挙げ句の果てには「ちょっとそこのペンとってくれる? その、あなたが下に敷いてるやつ」などと、なんともあっぱれな間の手を入れられたりするのもそうだ。
 そんなふうに、人の話の最中にだしぬけに興味を打ち切って気を散らせ始めたり、不真面目な態度で臨む輩のなんと多いことか。
 とはいえ、集中力に不足のない慧眼な読者なら口笛を吹いて喝采する話なのかと問われれば、残念ながらそれもまた首肯しがたい。
 この俺ですら、俺自身にちょっと懐疑的にならざるを得ない、そういった部分もなくはない、と思わないでもないのだ。
 のみならずそもそもの話自体が、てんでとるに足らない、いわば野に咲く名もない一房の雑草ともいうべきものであるという危惧もある。
 そんなあれやこれやを鑑みて、どうも話すのは得策ではない気がするのだが、一方で、自らについて語る誘惑を一顧だにしない孤高の人格者というわけでないことも、申し添えておきたい。
 あくまで、そういった逡巡をしながら、ということが伝わるならば、まあ話してもよかろう。

 剥げちょろけたシャッターが絞め殺された豚みたいな声をあげながら大儀そうに少しずつ上がっていく。
 今日も、寸分たがわぬいつもながらの儀式で始まった。
 サッシのドアに掛かっている時計は六時半。
 開店時間は六時のはずだが、まあそれはいつものこった。
 この掛時計というのがいささか忘れがたい存在であることを、多少露骨なきらいがあるにせよ、ここで「言葉のしおり」程度に付言しておこうか。
 それ自体が左方向に四度ほど傾いて掛かっていることもさることながら、もともとピンク色だったプラスティックの太い枠は、経年のほこりと湿気でフリーマーケットでよく見かけるたった今火事で焼けだされたみたいに垂直に逆立った髪のビニール人形のごとくうす汚れたベージュにまで色褪せている。
 命の灯火がまさに消えなんとする瞬間に思わぬ映像が脳裏をよぎるというが、まさにこの時計などはうってつけ、完全なる人生最期の走馬灯向きの、格別に傑出した色かたちだと言い切れるだろう。
 シャッターがやっとこさっとこ上がりきると、天井から下がったビニールのヒラヒラの向こうから夕日が幾筋か差し込んできて、照らし出された店内のほこりは、さながら地獄の嵐に吹きまくられて阿鼻叫喚する魂の群れといった風情を漂わせる。
 『神曲』顔負けの状況下ながら、毎日さしたる不便も感じぬままに息をしていられるのだから、客も店主もいやはやご立派なもんだ。
 その立派な御仁こと、この店の主にして勇敢なる我らがダンテは、ドアの鍵を開け、つっかけサンダルをコンクリートの床にずさーっずさーっとこすりつけながら、混じりっけなしの天然スモークの中からそれと意識しない荘厳な効果を演出しつつ現れ出たところだ。

20101015

「宇宙が丸いものか四角いものか知ってる者はまだ誰もありはしない。だから人間は嘘をついても大丈夫だ。博士だとか教授だとかいふ者はみんな嘘をついておまんまにありついてゐるのだね。ニュートンだのアインシュタインだのッて、引力だとか相対性原理だのッて、小むずかしい名前をくッつけて理窟をこねると、それでオカマおこしちゃふんだからね。何もアインシュタインを頼まなくッたッて、そんな事は朝飯前から分り切ってらァね。家賃がたまるとたちまち悶着が起きる。追立だとか執行だとかね、これ即ち相対性だからサ、絶対なら何も何年家賃溜めたってどこからも苦情がくるわけはないんだからね」
「日本にだってカーネギーが一人ぐらい出てきたっていいんだ。実はワシがなるつもりだったんだが(聴衆笑ふ)。イヤ、ほんとだ、ワシがある発明をしたんだね、するとワシには金がなくてそれをやる訳にゆかない。だから一緒にやる人間が出てきた。ところがどうだね、大当たり大成功だね。俺(ワシ)にはちっとばかり金をくれたきりで、その男はもう毎日自動車で、ツラッター、ツラッター(身振をする)と走らしてる。発明した当人はコンナ始末でサ。ウン、けどもワシは腹が大きいから、そんなこと屁とも思はないよ。自動車飛ばすのが嬉しい奴には、飛ばさしておくさ」
「ほんとだよ、乞食だッて三菱だッて変わりゃァしないんだよ。寝て、起きて、飯を食って、女を抱いて、酒を飲んで、何をするッたッて、それ以上のことができるわけのもんぢゃないからねェ」
(「乞食にゃァ女ァ抱けねえだろ」若い男がからかひの槍を入れる)
「冗談いっちゃァいけないよ。そんなことはナンでもない話だ。ただ俺(ワシ)はソンナことをしたいとは思はないだけの話だが、みんな乞食だって嬶もあれば、妾を持ってる者もあるよ。この浅草にだって、杖をひッぱたきながら浪花節を語って、何万両貯めてる親分もゐるんだからネ。君らは何でも社会的事象の表面ばかりしか見ないから駄目なんだよ、ウン……乞食ッたッてこれは立派な職業だよ」
「そんなに喜んぢゃいけない、笑ひ事ぢゃァない。みんなつまらない事なら喜んでいるから困るねえ。小説だの講談だのでも、樋口苦安だの、三日目於吉なンて、飴に黒砂糖をなすったやうな、ベトベトねつッこいのを嬉しがってるんだからねぇ。世の中の行進は、科学的に小細工を積み重ねてゆくんだから、みんな科学者にならなければ駄目だ。でなければ引ッ込んで瞑想家になるか、浅草の乞食になるかだよ」

(添田唖蝉坊、添田知道『浅草底流記』「哲学者の乞食」より)





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関係ないけど、一昨年ビジスタに書かせていただいた「人類が人にやさしい電化製品に支配される日」が読めます。
近々、もう一本もアップされる予定です。

20101014

明後日、深川で2525稼業のライブをします。
それにあたり、今日の18:00からUstream番組に告知を兼ねて出演します。
詳しくはこちらをどうぞ→2525稼業公式サイト

20101007

『明治密偵史』という本を読んでいる。
これは宮武外骨が1926(大正15)年に出した同名本をまるまる再録して81年に出版したものだ。
俗に「犬」とよばれる密偵(スパイ)の、明治前後(戊辰戦争、西南戦争、明治政府樹立後のいざこざなど)のエピソードをふんだんに盛り込んだ本で、「犬」の語源(織田信長が側小姓の前田犬千代をスパイとして今切の浜—当時の浜名湖は海に続いていてマカオから堺を経由した鉄砲などが輸入されていた—に番所の雑役として潜入させたことに由来し、忠義を尽くした高級密偵への賛辞だった)や、民間にいた私探偵の話、「犬を釣る方法」など、今では伺い知ることのできない逸話がたっぷり挿入されている。
「雨花先生曰く『密偵として化の皮を剥がれた者は真の密偵ではない。何人にも発見されない者でなくば其使命を全くすることは出来ない、そして其露顕しない明治政府の密偵は無数にあった、勅任官中にも多くの犬が居たのである』と、其隠れたる密偵の事は知るに由なしである故間抜けの為めに露顕した犬の物語と犬の評論を集めたのが本書の正編である」という「上編」や、「明治専制政府の犬使いたる主な連中は、岩倉具視、大久保利道、大木喬任、山縣有朋、山田顕義等である、この中で岩倉具視は凶徒に標的とされていたので盛んに犬を使った、その為一身は無事に終わったが子孫にロクな者が一人もいないのは、その犬を使った冥罰であろうと言った者がある」という記述など、外骨らしい皮肉が随所に見られて楽しい。

これだけでもいわゆる奇書ではあるが、実はこの本、「原著 宮武外骨 八切止夫 編」とクレジットされ、巻末には編者がつけたと思われるビゴーのイラストや明治時代の写真が唐突に入っている。
それもそのはず、『旧約聖書日本史』『天皇アラブ渡来説』など独特な史観に基づく歴史本をものし、一時は売れたものの、晩年には出版社とそりが合わずに自ら出版社を起こした八切止夫の日本シェル出版から出されていたのだ!
……などと、さもわかった風に書いているが、実は八切止夫に関しては寡聞にして知らなかった。
Twitterでつぶやいたところ、反応してくれた素敵なフォロワーたちに教えられ、はじめて検索した次第。
日本シェル出版から出ている本の全容はわからないが、50冊以上あることは確実で、八切の自著だけでも年10冊前後のペースで出ていたようだ。
『上杉謙信は女性であった』『織田信長暗殺は明智光秀ではない』など、いわゆるトンデモ本的ラインナップだが、「八切史観」「八切意外史」と自称している点で自覚的であり、エンターテインメントとしての趣味本的位置づけだと考える。
八切止夫がサービス精神旺盛だったことは、どの本の巻末にも必ず入るという「無料本50冊謹贈呈」の告知を見てもわかる。
送料4980円のみで23キロダンボール一箱分の自著、定価4万5千円相当を送るという破格の申し出で、「知人や図書館へ、何口でも御下命下さい」というのだから恐れ入る(とはいえ、内容をこちらで決められないのが難点といえば難点で、まあ「八切意外福袋」みたいなものか)。
ほかにも、死後すべての著作権を放棄するなど、(現在、一部がインターネットで読める)男気あふれるエネルギーとサービス精神に於いて八切止夫は数多ある独断と偏見で綴られる歴史本著者とは一線を画すのではないだろうか。
(それはそれとして、本文の途中が空いたからっていきなり「爆裂お玉 740円」と入れるセンスも一線を画すが)

いずれにしても、奇書というものの持つロマンとファンタジーには計り知れないものがある。
それらを壮絶なスピードとエネルギーで生産するのみならず、出版社を作って好きな本だけを出すなんて、本好き垂涎の行為である。
かくいうわたしも奇書を書こうとしたことがあって、それは何を隠そう『20世紀 破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』なのである!
あとがきやインタビューでは、破天荒な女性の生き方を応援するために書いたようなことを言ったけど(それは嘘ではないけど)、あの本を書くときにイメージしたのは、青春出版のプレイブックスから出ていた『ヘンな本 禁じられた「笑い」のすべて』(野末陳平)だった。
本の詳細は省くが(気になる方は古書店で確認してください)各章扉がドアになっていて「1時間目 神経科行きのお時間」「2時間目 精神科行きのお時間」「3時間目 脳外科行きのお時間」という不謹慎極まりない章タイトルがつけられ、「ヘンな流行語」「今昔不変大学教授考現学(いまもむかしもかわらぬだいがくのせんせいのありのまま)」「流行歌で綴った戦後二十年史」など何の脈絡もないおふざけコラムが延々続くスタイルにショックを受け、本ってこんなに自由に書いてもいいんだ! わたしもこういうのやりたい! と思ってしまったものである。
その通りできたかどうかはまた別の問題だが、ともあれ、『明治密偵史』には改めて勇気をもらった。
見習って、わたしも次の本では本文の途中にいきなり「破天荒セレブ 1600円」と入れてみようっと。

追記:若狭邦男『探偵作家尋訪 八止切夫・土屋光司』(本古書通信社)によると、八切止夫の全著作数は235冊、死後シェル出版の倉庫にあった在庫は5万冊、一部は図書館や古書店に流れたが、大半は廃棄処分をしたとのこと。