20030704

わたしは本がすきです。字がよめるようになったときからようちえんとかでもまいにち本をよんでいました。けれども、りょうしんの本だなの本をよんだりはあまりしていません。なぜなら、いちど本だなにあった「といつめられたパパとママの本」という伊丹十三の本をよんでいたらおこられたからです。それからはりょうしんの本だなの本は手塚治虫とか「フリッツ・ザ・キャット」とかしかよまないようにして、あとはじぶんの本をよんでいました。好きな本はなんどもよみました。そして、おとなになって本がすきというとおなじしゅみの人が本をかしてあげるといったりしました。でも、そういう本には言説とか受容とか遍在、文脈、規定、表象、視座、単線的、等置、仮構、駆動、峻別、知覚とかいうことばがいっぱいつかわれていました。ちかくにいる人に、こういうことばはつかったことがないといったら「ろんぶんようごだから」といわれました。でもがんばってよんでいると、じゅくごというのはみじかいたんごでいくつものいみをほうかつしているのでつかいやすいし、つかわれているものをよむのにもじかんがせつやくされるとおもいました。でも、なにかがちがうというきもちもしていました。ことばとかぶんしょうはそれをよんで、わらったりないたりおこったりしたいものだとおもいました。

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