20101025

 奴さんのことを、俺は密かにB-3と呼んでいる(べつに密かにする必要もないんだが)。
 B-3というのは、アメリカ空軍のウェアや時計を製造しているAVILEX社のムートンジャケットの型番で、表はなめした皮革製、裏は防寒のためにびっしりと羊毛のボアをはりめぐらしてある、奴さんの冬の愛用品だ。
 二十年ほど前、このジャケットが二十代の男どもにやたらと流行したことがあって、どうやらそのころ購入に及んだとみえる。
 襟にはベルトがついていて、例えば気の狂ったリッパー将軍の命令で急きょ零下五十度のロシアに攻撃をしかける必要にせまられたときなどには、それを締めることで首元を暖かく包むこともできるのだが、真冬の最低気温がせいぜい零下三度の大田区蒲田じゃあまず使用する機会はなく、襟は腹の裏側を見せてだらしなく広がっているのみ。
 表の革もところどころ禿げて、その道五十年の漁師のおっさんの手の甲の肌もかくやと思うほどのこなれた様相を呈している。
 脱いだところを見たら袖付けの裏のボアが半分以上取れかかっていたくらいのもんだが、それでも奴さんにとっては携帯可能な青春のよすがともいうべき大切なものらしく、ほこりだらけのカウンターにしばらく置いておいただけで親の敵みたいに狂ったように振りはらうさまは一幕の良質なパントマイムとでも言おうか、ともかくことこのジャケットとなると、どこにこんな繊細さがあったのかと驚くほどの神経を使う。
 奴のなかでは、一枚の服というより動かしがたいひとつの信念とか幾多の危機をともに乗り越えた盟友とでもいうような、他人からは窺い知れないものにまで昇華しているらしい。
 とはいえ、この日は六月でも暑いくらいだったから、さすがのB-3も永の相棒は伴わず、上半身は定番のBVDのTシャツ、下はウェスト部分にゴムが通ったやけに派手な赤い短パン、茶色いビニール製のつっかけサンダルといういでたちに、「ロベルト」と書かれた本物か偽物かといった論をたやすく退けるような百人中百人が聞いたことのないブランド名のセカンドバッグをコーディネートしている。
 それは、ある日をさかいに突然隆起し、気づいたときには遅きに失した態の、元来痩せ型だった人間によくある小山のような腹や、額から五センチほど退却を迫られたもののそれより下ならいくらでも伸びることができるとばかりに肩まで垂れた頭髪に、こころ憎いまでに似合っていた。
 B-3はその「ロベルト」のバッグをレジ台に投げるように置くと、緑色の地に黄色の、さしたる深い理由もないままなぜかちょっとおどけたような書体で「大人のオモチャ」と書かれた看板を表に引きずり出し、プラグを外のコンセントに差す。
 とたんに、アフリカの草原に移し替えても遜色ない見事な夕日を従えた看板は、一種叙情的な効果を発揮する。
 果たせるかな、こうして自由に描ける真っ白なキャンバスと見せかけて、その実、身の毛もよだつ凄まじい一日が幕を開けたわけだ。

 奴さんと暮らすようになっておよそ二年になる。
 やれやれ。
 それは、ノアの箱船に嵐が来て慌てて船の横にくっついていた緊急避難用ボートに乗り込んだら二人きりで、そのまま千年も茫漠たる海を航海しているみたいなもんだ。
 カモメに石を投げたり、イルカを捕ろうと群れにやみくもに棒っ切れを突き刺そうとして失敗し、怒らせて逆にボートを転覆させられそうになったりしている間に、最初はなんの共通項もなかった二人に不思議な友情といえなくもないほのかな同志愛が芽生えてくる、といった展開がそうした場合の常で、俺とB-3も残念ながら(まったく残念なことだが)類型を免れない。
 互いに好き嫌いを言う暇もあらばこそ、運命の手引きでいまやひとつ鞘におさまった豆のごとしというやつで、例えば普段奴さんが店に来る前にどんなことをしているかなんてことは、容易に像を結ぶ。
 店から五分とかからない場所にある、両親の経営するアパート「ラ・レジダンス・ドVIP 蒲田パート2」(築三十年の木造モルタル二階建て)二〇五号室に居を定めて早二十余年。
 六畳一間の中央に敷いた万年床から起き上がると、寝巻のままテレビを点けてほぼ半日、動かざること巌となったさざれ石のごとくといった態で鑑賞に及び、「狙われる暗証番号…盗み見&超小型カメラ」やら「合法ドラッグの違法性ー渋谷の若者は今ー」やら扇情的なアナウンスで垂れ流されるワイドショー的ニュースが終わったあたりで一念発起、のろのろと家を出て三十分か四十分遅れで店に来る。
 おおむねそんなところだろう。
 店の客は多くて日に十人足らず、少ないときは一人も来ない。
 ときどきひやかしの若いカップルなんかも入ってくるが、基本的には店主と同じく世の中の問題にはことごとく素通りされる手合いだ。
 商品も、ほとんど変化なし。
 今のところまだメーカーの営業地図にこの店は存在するらしく、頭に卵の殻がついているようななりたてとおぼしき担当営業が最新式の多機能オモチャを持って来て、七種類のバイブ機能プラス八種類のスウィング機能付きでカートリッジ式電池ボックスだから電池の取り替えも簡単なんです! と立板に水のごとくまくしたてて売り込みに来たりもするが、B-3はほぼ興味を示さない。
 よっぽど安価だったり(中国の愛らしい女工さんの働きのおかげで二四五円のローターなんてものもある)、押し切られたりしない限りは大抵断っちまう。
 そんな調子だから、この店では保証期間もとうに過ぎた十年選手、十五年選手も珍しくないわけで、キリストの聖骸布やソールズベリーのストーンヘンジのごとく考古学的神秘に包まれた遺物の風格を漂わせるものすら存在する。
 俺は二年ほど前に三人の仲間とともにこの店に来た。
 メーカーの今北産業がオレに付けた名前は「白熊くん」。
 女性の自慰用のオモチャ、俗にいうバイブレーターだ。
 ボディはパールホワイト、先端には、頭頂部が禿げて波うつほど長い髪と顎髭が交じり合って垂れ下がっている爺さんの顔が刻まれ、福禄寿よろしくにっこり笑っている。
 本体の足下には気のきいた洒落のつもりか栗を持ったリスまで鎮座ましまして、うっかりしてると福でもさずかりそうな様相だが、これは子供だましな表面の細工であって、俺自身とは関係ない。
 もちろん、白熊ともだ。
 心服の友二人とは最初の半年で別れ、ひとり残った俺は箱から出されて、ご大層にガラス棚に飾られる羽目になった。
 いわゆる、現品限り! というやつだ。
 ガラス棚は必要とあらばB-3に言って鍵を開けてもらうことが可能で(ここだけの話だが、扉にぶら下がってる錠前はお飾りで、本当にかかっちゃいない)、手にとって造形美にうっとりしたり、スイッチを入れて繊細にして巧緻に長けた俺の妖艶な動きを目の当たりにできる。
 その道に熟達した者なら、一目見ただけで七一四十円で手に入れられるものとしては最良の部類に入ると認めざるを得ないだろう。
 プレゼントしたときの彼女の表情を想像して欣喜雀躍、レジまで一目散することうけあいだ。
 だが、まあ、今のところそういった例はない。
 ガラス棚の中でうっすらとほこりのベールをかぶりつつ、来るべき日を待って超然と佇立するのみ。
 とは言うものの、決して無駄に時間を過ごしているわけじゃない。
 レジの隣りのこの場所は入り口の外から店の奥まで見渡せて、注意さえ怠らなければけっこう世間を知ることができるし、実のところ今ではこの店に欠くべからざる存在とでもいうか、何かあったらそのときは俺が必ず守るといった一種崇高な使命を帯びた守り神のような気持ちにすら駆られているのだ。

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