20160310





前回の続き。
丹いね子が文学者・長田秋濤との噂について反駁した「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」(女の世界』大正4年10月号)の内容とは、というお話から。

まず、いね子は冒頭からかなり激しく、悲痛なで筆致までの訴えます。

長田秋濤さん。
貴君は實に惨酷な方です。私は貴君の為に何(ど)れ程世間の人々から嘲笑と侮蔑を浴されたか知れません。其の度に何度(どんな)にか泣いたでせう、私ばかりか、恩愛ある両親も、愛らしい弟もみな貴君をうらんで居ります。私の此の廣い世間に心からうらみ憎しむ人は二人あります、一人は帝国劇場の立唱(プリマドンナ)原のぶ子嬢です。然し原さんは貴君の様に生爪を剥がす程の惨(むごた)らしい事は致しませんでした。(中略)貴君は何でせう、女の生命とする大切な誇をあの毒々しい貴君の口で傷付けなさった。一生はおろか七生までもうらみます。

「名物女」と呼ばれ、「何時ぞや有楽座の仮装会の時、いね子は四十八人の男と交る交る接吻(キッス)をして、尚まだ疲れもせず。さア何誰でもといった様な勢い」(青柳有美『女の裏おもて』))とまで書かれたいね子が、長田秋濤との一件には相当傷付いているらしいのです。
そして、ことの顛末を詳細に書いています。

要約すると、一昨年の秋に日吉町のカフェープランタンで秋濤が二、三人の画家といるところに行き当たったのが初対面(で最後)。
そのときすでに秋濤は酩酊しており、はばかられるような嫌らしい話を臆面もなくするので同席することに耐えられなくなったいね子はそこを出て、二、三軒先の新婦人社に逃げた。
すると後を追ってきた秋濤が受付で「己は天下の長田秋涛だ」などと怒鳴り出したため、騒動に。
いね子は隠れてもいられず、出てきて秋濤を辻車に乗せて日比谷ホテルに帰らせ、自分は後ろの車に乗って一応見届けるために連いて行った(あまりに酔っていて危険だったのと、女学校時代に秋涛訳のデュマ『椿姫』を愛読していたため)。
ホテルに着くと秋濤は帝劇で興行する劇の脚本を見せると言葉巧みにいね子を部屋に連れ込み「無理な要求」をした。
いね子は恐怖し拒否すると、秋濤は「ここまで来た以上、世間は何もなかったとは信じまい。意のままにならないなら男が立たないから君を自由にしたと世間に吹聴してやるから覚えておけ」と捨てぜりふを吐いた。
いね子は部屋を出たがこの間わずか15分であり、もちろん何もなかった。
しかし秋濤は早速、嘘の話(関係して1円くれたやったなど)を記者に話し、カフェーやバーでいね子の知り合いなどにも得意げに吹き廻った。

以上が、いね子の主張である。
ちょっと聞くと菊池寛の小説のような話ではありますが、しかしこれが事実ならなんとも腹立たしい!!
101年後に怒っても仕方ないが、こんなろくでもない男が名前を出して平気で仕事をしていたなんてとても考えられません。
「己は天下の長田秋濤だ」?
いったい誰よ、全然知らないけど? と思ったので調べてみました。

長田秋濤 おさだ・しゅうとう
明治4年10月5日- 大正4年12月25日
劇作家・仏文学者・翻訳家。本名・忠一(ただかず)。静岡県静岡市西草深町に徳川家直参・長田銈太郎の長男として生まれる。幼少時に父とともに上京し、学習院を経て、第二高等学校に入学。明治23年から4年間、渡仏。明治30年に再渡欧。帰国後、硯友社の一派と交わった。川上音二郎らと演劇改良のため働き、翻案戯曲小説『椿姫』を明治36年刊行。

こう言っては何だけど、今では忘れられてる感じ。
デュマやボッカチオの翻訳もしていますが、古典文学になってしまった作品を当時いち早く訳した人は改訳が重なるうちに忘れられてしまうのかもしれません(中村光夫が『贋の偶像』で扱ったというので読んでみたいとは思います)。

これだけではどうにも溜飲が治まらない。
というわけで長田秋濤についてもう少し調べてみまたので、次回お届けしようと思います。
この人、豪快といえば聞こえはいいけどどうも傍若無人で酒好き・女好きのしょうもない一面があったようで、そのものずばり「長田秋濤の女歴」(九鬼逸郎『兵庫風流帖』昭和36年)なんて文章もあるほど。
妻子ある身で若い女の子を捕まえて映画界にねじこんで……おっと、これ以上は次回。

それにしてもいね子の「長田秋濤氏に與(あた)ふ」からわずか2、3カ月で亡くなっていたというのは、ちょっと意外でした。