ジュリーと淳子に続報。
こちらのサイトによると
中学の頃、友人が兄貴から聞いたと言う話では『山道でドライブ中に方向が解らなくなったので、取りあえず前を走っている車に付いていけば人家がある処に出るだろうとついて走っていたら、突然車が止まり中から沢田研二が出てきて「お願いだから、これ以上尾行をしないでくれ」と金を渡された。その時助手席に乗っていたのは桜田淳子だった』
というウワサ話を書かれているサイトを発見。
この方は「他にそんな事件があったらとっくにワイドショーネタだ」と書かれていますが、うーーん、わたしの体験(友達の母親の目撃情報)は本当だし、多分それ事実じゃないか?
というか、淳子とジュリーは無防備にそこらをドライブしすぎ!
20030722
20030705
「わたしとジュリー(沢田研二)と初恋」(再録)
初恋というコトバのヒビキは相当はずかしいのでありますが、代わりのコトバもないもんでこれで続けますが、みなさんにもいろいろと体験がおありのことと思います。
わたしは幼稚園、小学校、中学校それぞれに「好きな人」と呼べる人はいたものの、今でも思いだすだに息苦しい、本当に本当に強い恋愛感情でこれこそが自分の最初の恋だ!と断言できる体験は、わずか6歳のころにさかのぼります。
その初恋の相手は……(ここでためるな、タイトル見たらわかる)そう、沢田研二であります。
あ、でも子供の恋と侮るなかれ、本当に本当に本当に好きだったんだから。
どれくらいかというとですねー……ま、結婚は当然するつもりだったし、その人のことを考えるだけで呼吸困難というか、それ以降の本当の恋愛でも未体験っていうくらいの好き度で、もう運命の相手だと信じていたのですよ。
「わたしはこの人のために生まれてきたのね」って感じでしょうか、いわば。
いや、6歳くらいだけど。
最初に彼の存在を知ったのは、車の中でラジオから「君をのせて」が流れてきたときでした。
当時、家族3人でミニクーパーに乗って(ニューファミリーだったもので)よく出かけていたのですが、その曲が流れていたときもドライブ帰りで、そのとき通っていた場所も鮮明に覚えています。
母が父に「この人(ジュリー)この間までタイガースっていうグループにいたのにソロになって、そしたら急にイメージが変わったのよねー」みたいなことを言ったのも覚えている。
だから、最初は声だったんでしょうね、きっと。
で、それ以来密かにファンにはなったのですが、母もジュリーを好きになったらしく、よくレコードをテープに録って聴いたりしていたので、わたしはとりあえず母を身近なライバルとみなしていました。
ただ、母は結婚していたので(当たり前)その点は自分の方が全然有利でした。
そのころ、子どもはみんなピンクレディーが大好きで、わたしも歌や振り付けを覚えて遊んでいましたが、歌番組などを観るときは実はジュリーが目的でした。
でもそれをライバルである(?)母や他の人に知られないために、あくまでカムフラージュとしてピンクレディーファンのようにして観ていたのであります。
ただ、ピンクレディーの二人自体もライバルと見なしていました。
幼稚園児の知恵のあさましさで、当時の一番人気というだけで、ピンクレディーとジュリーはアヤシイと思っていたのであります(特にミー。なぜなら「ミーはケイよりびじんだから」。本当にそうか? と今なら問い詰めたい)。
だから、ベストテンなどで歌い終わった歌手が座る後ろのソファーで、CMに入る直前にピンクレディーがジュリーに話しかけている映像が一瞬でも映ったら、もう不安で不安でCMどころではなく「いいからソファーをうつせ〜!!」って感じでした。
普段は、ジュリーは目に見えない恋人としていつも近くにいて、呼べばいつでもでてきてくれるわたしだけの彼でした。
特に好きだったアルバムは「思いきり気障(きざ)な人生」(ついていけなかったらすいません)。
歌の中に「髪型が変わりましたね」という歌詞があれば髪をなびかせ「ここへ座ってくれ 足を組んでくれ」と言われれば座って足を組むほど、わたしの中ではすべてのセリフは自分に語りかけられていたのです。
ちなみに、アルバムの中には男性にジュリーが先輩として語りかける歌もあったのですが、不思議と記憶から抜けてます。
どうでもよかったらしい。
ある時、さりげなさを装って母に聞いたことがあります。
「ねえ、ピンクレディーってどこに住んでるの?」
「東京よ」
「じゃあ、沢田研二ってどこに住んでるの?」(本当はこれがききたかった)
「東京よ」
当時わたしは兵庫県は芦屋市に住んでいたので東京というものの実態をつかめず、東京は芸能人が住む街で、1丁目にはジュリー、2丁目にはピンクレディーという風に固まって住んでいるのだと理解しました(だからげいのうじんはすぐげいのうじんとけっこんするのよね!)。
それ以降、玄関の呼び鈴を押すとジュリーが出てきて、わたしが「好きです」と告白すると彼はにっこり笑ってそのまま結婚に至る、という妄想にひたりはじめました。
アブネー子供でした。
結婚といえば、ジュリーが当時「ザ・ピーナッツの人」と結婚していたのは当然知っていましたが、母に「この人よ」と見せられた女性の写真は、サングラスをかけたお世辞にも素敵とはいえないオバサンで、自分の勝利を知りました。(「ザ・ピーナッツ」時代の写真も可愛くないと思った)
ところが、このころショーゲキ的な事件が起こります。
東京から遠く離れた芦屋市で、桜田淳子とドライブしていたジュリーの姿が友達の母親によって目撃されるのです!
よりにもよって、桜田淳子ですよ?
その頃は活躍してなかったので全くのノーマークだった相手との密会情報に、本当にショックを受けました。
どうして?どうして?だって、ジュリーは「革のコートの袖も通さず」「ヒールの音だけコツコツ響」かせるような女が好みでしょう?
なぜ「ようこそここへ クッククックー」なわけ?
……………
今にして思えば、ジュリーの歌は沢田研二自身には全く関係なく、阿久悠というオッサンの脳内イメージに過ぎなかったのですがね。
そういやライブアルバムのMCでジュリーという呼び名について「ジュリー・アンドリュースが好きだから」「男でも・・・ジュリーでいいじゃないか」とも言ってたよ、変わった趣味の人だったんだよな、きっと。
結局、わたしのジュリー熱が冷めたのはいつだったのでしょうか?
あまりはっきりしません。
ただ、田中裕子と再婚したときも、軽いショックを受けたことだけは覚えています(「あーまた趣味の悪い!」みたいな。男性はそうは思わないかも知れないですが)。
沢田研二自身は「ジュリー」とはかけ離れた人物で、素朴で、地味な人だということがだんだんにわかってきたので、ゆるやかに終わりを告げたのかもしれません。
派手で、格好よくて、でも女々しいところもある「ジュリー」はどこにもいない男性だったわけです。
敢えて探せば阿久悠の中にあるのでしょうが、それだけは考えたくない。
そんなこんなで、わたしの世代で一世を風靡した「たのきんトリオ」だとか「シブがき隊」などは子供騙しな感じでノれなかったし、もっと言えばクラスの男の子と「付きあう」と称して一緒に帰ったりする世界もついていけなかった。
いつのまにか「本当の恋愛」以外したくない!と頭でっかちな子供になっていました。
今思えば、やっときゃよかったと思うけど。
そして実は今でも、男性の基本形は自分にとっては「ジュリー」で、バカバカしいとは思っていてもこれだけは壊せなかったりして、まあそれくらい強烈な体験でした。
なので、これが自分の初恋だと思うわけです。
そうそう、後日談というかちょっといい話。
芦屋市から小学校四年生の時に東京の渋谷区に引っ越したのですが、そこはジュリーの奥さん(「ザ・ピーナッツ」の方)が子供を産んだ病院と目と鼻の先だった!ということを最近知りました。
奪う気になれば奪えたかも(奪うって10歳やん>自分)。
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初恋というコトバのヒビキは相当はずかしいのでありますが、代わりのコトバもないもんでこれで続けますが、みなさんにもいろいろと体験がおありのことと思います。
わたしは幼稚園、小学校、中学校それぞれに「好きな人」と呼べる人はいたものの、今でも思いだすだに息苦しい、本当に本当に強い恋愛感情でこれこそが自分の最初の恋だ!と断言できる体験は、わずか6歳のころにさかのぼります。
その初恋の相手は……(ここでためるな、タイトル見たらわかる)そう、沢田研二であります。
あ、でも子供の恋と侮るなかれ、本当に本当に本当に好きだったんだから。
どれくらいかというとですねー……ま、結婚は当然するつもりだったし、その人のことを考えるだけで呼吸困難というか、それ以降の本当の恋愛でも未体験っていうくらいの好き度で、もう運命の相手だと信じていたのですよ。
「わたしはこの人のために生まれてきたのね」って感じでしょうか、いわば。
いや、6歳くらいだけど。
最初に彼の存在を知ったのは、車の中でラジオから「君をのせて」が流れてきたときでした。
当時、家族3人でミニクーパーに乗って(ニューファミリーだったもので)よく出かけていたのですが、その曲が流れていたときもドライブ帰りで、そのとき通っていた場所も鮮明に覚えています。
母が父に「この人(ジュリー)この間までタイガースっていうグループにいたのにソロになって、そしたら急にイメージが変わったのよねー」みたいなことを言ったのも覚えている。
だから、最初は声だったんでしょうね、きっと。
で、それ以来密かにファンにはなったのですが、母もジュリーを好きになったらしく、よくレコードをテープに録って聴いたりしていたので、わたしはとりあえず母を身近なライバルとみなしていました。
ただ、母は結婚していたので(当たり前)その点は自分の方が全然有利でした。
そのころ、子どもはみんなピンクレディーが大好きで、わたしも歌や振り付けを覚えて遊んでいましたが、歌番組などを観るときは実はジュリーが目的でした。
でもそれをライバルである(?)母や他の人に知られないために、あくまでカムフラージュとしてピンクレディーファンのようにして観ていたのであります。
ただ、ピンクレディーの二人自体もライバルと見なしていました。
幼稚園児の知恵のあさましさで、当時の一番人気というだけで、ピンクレディーとジュリーはアヤシイと思っていたのであります(特にミー。なぜなら「ミーはケイよりびじんだから」。本当にそうか? と今なら問い詰めたい)。
だから、ベストテンなどで歌い終わった歌手が座る後ろのソファーで、CMに入る直前にピンクレディーがジュリーに話しかけている映像が一瞬でも映ったら、もう不安で不安でCMどころではなく「いいからソファーをうつせ〜!!」って感じでした。
普段は、ジュリーは目に見えない恋人としていつも近くにいて、呼べばいつでもでてきてくれるわたしだけの彼でした。
特に好きだったアルバムは「思いきり気障(きざ)な人生」(ついていけなかったらすいません)。
歌の中に「髪型が変わりましたね」という歌詞があれば髪をなびかせ「ここへ座ってくれ 足を組んでくれ」と言われれば座って足を組むほど、わたしの中ではすべてのセリフは自分に語りかけられていたのです。
ちなみに、アルバムの中には男性にジュリーが先輩として語りかける歌もあったのですが、不思議と記憶から抜けてます。
どうでもよかったらしい。
ある時、さりげなさを装って母に聞いたことがあります。
「ねえ、ピンクレディーってどこに住んでるの?」
「東京よ」
「じゃあ、沢田研二ってどこに住んでるの?」(本当はこれがききたかった)
「東京よ」
当時わたしは兵庫県は芦屋市に住んでいたので東京というものの実態をつかめず、東京は芸能人が住む街で、1丁目にはジュリー、2丁目にはピンクレディーという風に固まって住んでいるのだと理解しました(だからげいのうじんはすぐげいのうじんとけっこんするのよね!)。
それ以降、玄関の呼び鈴を押すとジュリーが出てきて、わたしが「好きです」と告白すると彼はにっこり笑ってそのまま結婚に至る、という妄想にひたりはじめました。
アブネー子供でした。
結婚といえば、ジュリーが当時「ザ・ピーナッツの人」と結婚していたのは当然知っていましたが、母に「この人よ」と見せられた女性の写真は、サングラスをかけたお世辞にも素敵とはいえないオバサンで、自分の勝利を知りました。(「ザ・ピーナッツ」時代の写真も可愛くないと思った)
ところが、このころショーゲキ的な事件が起こります。
東京から遠く離れた芦屋市で、桜田淳子とドライブしていたジュリーの姿が友達の母親によって目撃されるのです!
よりにもよって、桜田淳子ですよ?
その頃は活躍してなかったので全くのノーマークだった相手との密会情報に、本当にショックを受けました。
どうして?どうして?だって、ジュリーは「革のコートの袖も通さず」「ヒールの音だけコツコツ響」かせるような女が好みでしょう?
なぜ「ようこそここへ クッククックー」なわけ?
……………
今にして思えば、ジュリーの歌は沢田研二自身には全く関係なく、阿久悠というオッサンの脳内イメージに過ぎなかったのですがね。
そういやライブアルバムのMCでジュリーという呼び名について「ジュリー・アンドリュースが好きだから」「男でも・・・ジュリーでいいじゃないか」とも言ってたよ、変わった趣味の人だったんだよな、きっと。
結局、わたしのジュリー熱が冷めたのはいつだったのでしょうか?
あまりはっきりしません。
ただ、田中裕子と再婚したときも、軽いショックを受けたことだけは覚えています(「あーまた趣味の悪い!」みたいな。男性はそうは思わないかも知れないですが)。
沢田研二自身は「ジュリー」とはかけ離れた人物で、素朴で、地味な人だということがだんだんにわかってきたので、ゆるやかに終わりを告げたのかもしれません。
派手で、格好よくて、でも女々しいところもある「ジュリー」はどこにもいない男性だったわけです。
敢えて探せば阿久悠の中にあるのでしょうが、それだけは考えたくない。
そんなこんなで、わたしの世代で一世を風靡した「たのきんトリオ」だとか「シブがき隊」などは子供騙しな感じでノれなかったし、もっと言えばクラスの男の子と「付きあう」と称して一緒に帰ったりする世界もついていけなかった。
いつのまにか「本当の恋愛」以外したくない!と頭でっかちな子供になっていました。
今思えば、やっときゃよかったと思うけど。
そして実は今でも、男性の基本形は自分にとっては「ジュリー」で、バカバカしいとは思っていてもこれだけは壊せなかったりして、まあそれくらい強烈な体験でした。
なので、これが自分の初恋だと思うわけです。
そうそう、後日談というかちょっといい話。
芦屋市から小学校四年生の時に東京の渋谷区に引っ越したのですが、そこはジュリーの奥さん(「ザ・ピーナッツ」の方)が子供を産んだ病院と目と鼻の先だった!ということを最近知りました。
奪う気になれば奪えたかも(奪うって10歳やん>自分)。
20030704
わたしは本がすきです。字がよめるようになったときからようちえんとかでもまいにち本をよんでいました。けれども、りょうしんの本だなの本をよんだりはあまりしていません。なぜなら、いちど本だなにあった「といつめられたパパとママの本」という伊丹十三の本をよんでいたらおこられたからです。それからはりょうしんの本だなの本は手塚治虫とか「フリッツ・ザ・キャット」とかしかよまないようにして、あとはじぶんの本をよんでいました。好きな本はなんどもよみました。そして、おとなになって本がすきというとおなじしゅみの人が本をかしてあげるといったりしました。でも、そういう本には言説とか受容とか遍在、文脈、規定、表象、視座、単線的、等置、仮構、駆動、峻別、知覚とかいうことばがいっぱいつかわれていました。ちかくにいる人に、こういうことばはつかったことがないといったら「ろんぶんようごだから」といわれました。でもがんばってよんでいると、じゅくごというのはみじかいたんごでいくつものいみをほうかつしているのでつかいやすいし、つかわれているものをよむのにもじかんがせつやくされるとおもいました。でも、なにかがちがうというきもちもしていました。ことばとかぶんしょうはそれをよんで、わらったりないたりおこったりしたいものだとおもいました。
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