20140505



もうかなり前のことになってしまいましたが、山内マリコさんとのトークイベント、無事に終了しました。
来てくださったみなさま、ありがとうございました。

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今日、何気なく青蛙房の大正っ子シリーズから村上信彦『大正・根岸の空』を手に取って読み始めた。
このシリーズは大正時代に子供だった人たちが当時の思い出を書くというコンセプトで編まれており、その舞台は下谷、築地、本郷、早稲田、日本橋人形町、日本橋石町、吉原、銀座赤坂、渋谷道玄坂、神田、浜松河岸、雑司が谷など東京各所にわたる。
子供時代の思い出のせいかとても生き生きとしていて、街の雰囲気が手に取るようにわかって興味深い。
また著名人の意外なつながりがわかったりするので、戦前の東京について知りたい向きにはとくにおすすめだ。
ちなみに『根岸の空』著者の村上信彦氏は明治から昭和にかけて活躍した小説家村上浪六のご子息である。

ところで今日読んでいて、驚いたのは「手製の回覧雑誌」という章。
これが、わたしが小学校時代に作った雑誌となんだか似ているのだ。
この件については先日の山内さんとのトークでも話したが、あらためて書いてみる。

わたしは兵庫県出身で、小学校三年から四年になる春休みに父の転勤で一家で東京に引っ越してきた。
生活や環境がほとんど正反対の世界に投げ込まれたため、当初は大いに戸惑った。
というのも、私立の女子高から公立の共学に移ったため男子という生き物が恐ろしかったのだ。
小四男子といえば体力はついてきているけど精神はまだまだ子供、関西弁をからかってきたり、卑猥語を大声で叫んだり、あたり構わずプロレスを始める野獣にしか見えず、どう接していいのかまったくわからない。
また自営業の子の家にお邪魔したときも、お仕事中のご両親に紹介されて下を向くばかり。
それまで魚屋さんとか新聞屋さんは絵本のなかのファンタジーだと思っていたのだ。
制服から私服に変ったのも困った点で、あるときエプロンのついたワンピースを着ていったら、クラス委員の女子に「ヒラはお嬢様だもんね〜」と嫌みをいわれたこともあった。
ここで、例えばわたしがスポーツが得意だったり勉強ができたり美貌に恵まれていたら、あるいは逆転ホームランが打てたかもしれないが、あいにくどれもぱっとせず、家が近い女子と仲良くするくらいしか手がなかった。
そうこうするうちに、いつの間にかミスプリントの裏紙に絵や漫画を描くのが趣味になった。
一丁前に「続き読ませて」と言われたりして(当時、学級文庫に漫画が禁止されていたので飢えていただけだと思うが)調子に乗って描き続け、紙が底をつきそうになって担任の先生に怒られるほど夢中になった。
そこで、突如漫画雑誌創刊を思いつく。
確か六年の頃だった。
学年三クラスのなかから少しでも絵が描ける、話が作れるという人をスカウトし「あなたは連載30ページね」「あなたは40ページ」という風に振っていった。
雑誌『なかよし』や『マーガレット』並みの厚さの雑誌を月刊で出すつもりでいた。
自分は連載40ページと読み切り60ページを描き(この読み切り漫画のタイトルが先日のトークイベントのサブタイトル「炎のごとく」なのだ!)、巻頭カラーページ、プレゼントページ、表紙など諸々を担当した。
そしてなぜか学年中を周り「これから雑誌創刊するから『喜びの声』を書いて」と強制的にメモサイズの紙を渡した。
誰に乞われたわけでもない、ただ作りたくて作る雑誌の「喜びの声」などヤラセでしかないのだが、わたしの情熱は止まらない。
みんなもなんとなく気圧されて「楽しみにしてます」とか「待ってました」と書き、受け取ったわたしはそれをせっせと書き写した(回覧雑誌だから一冊しかない)。
一号はなんとかできた。
原稿をまとめてみたら束は2cmくらいしかなく、イメージとだいぶ違った。
当たり前だ、漫画雑誌は束の出る紙を使っているのである。
まだまだだな、と奮起して二号もなんとか出た(一号より若干薄かった)。
三号の準備中、みんなが原稿を上げてこないので鬼編集長は各家に電話した。
「何してるの? もう締め切りとっくに過ぎてるんだけど!」
すると思いもかけない返事が返ってきた。
「……だって、今、中間テストじゃん」。
中間テスト……なんだっけ…その響き……。
雑誌のこと以外何も考えないわたしに、それはいわばヌーヴェルヴァーグだった(それにしても中間テストがあるということは中学生なわけで、途中で中学生になったのだろーか、記憶が曖昧である)。
そんなわけで、この雑誌はあえなく廃刊した。
中学二年になって、また別の雑誌を創刊したが、メンバーも一新し、漫画以外に小説やイラストも載せた現実的な内容で、コピーという文明の利器も導入されるようになったが、それはまた別の話。

ところで話は戻るが、村上信彦氏が作った回覧雑誌はというと、タイトルは「白椿」、表紙は画用紙で姉に白椿の絵を描いてもらい、少年小説、冒険小説、「コントとも随筆ともつかない短文」、カットや挿し絵を自分で書いたらしい。
最初に見せたのが担任の先生で、その後クラスで回覧したが引っ張りだこだったらしい。
そしてここがポイントなのだが

(前略)私は、かなり傲慢なことをやった。
一つは、雑誌のおわりに白い頁をつくって、そこに読んだものの順に判を押させることにした。
なぜそんなことを思いついたのか判断にくるしむけれども、たぶん判を押させることで権威がつくように感じたのだろう。
愉快なのはいちばん最初に藤原先生から判をもらっていることである。
先生はどんな気持でこんなものに協力する気になったのであろうか。

これはまさにわたしの雑誌に於ける「喜びの声」である。
編集長という立場は人を有頂天にさせ、傲慢にさせるのだ。
それは偉いとかなんとかいうよりも、雑誌作りのあまりの楽しさゆえに忘我の境地に達してしまうのである。
村上氏はさらに特権を見せつけた。

いま一つは投書を募集したことだった。
子供のつくった雑誌に投書欄を設けるという発想自体がひどく大それたコッケイなものなのに、私は大まじめだった。
それは『日本少年』に投書した体験と結びついて、雑誌としてはなくてはならぬもののように思われたのである。
(中略)おどろいたことに、これに応募するものがたくさんあった。
それもいわゆる勉強家ではなく、いたずらしたり暴れたりする連中が画などをかいて届けてくる。
(中略)私はそれをまとめて次号にとじこむ。
そしてナント一篇を選み出し、入選作とする。


然り、然り。
いかにも市販の雑誌らしくするというのは大事なポイントだ。
そしてまた圧倒的パワーを目にすると他の子供たちはつい従ってしまうものなのである。
とはいえ、村上氏は創刊前に本物の雑誌に作文が入選していたし、お父さんは有名作家だしで、まあ権威を持っても仕方ない部分もあるだろう。
わたしなどなんの根拠もないのに威張っていたのであるから、だいぶ事情は違う。
それはそれとして、大正時代の子供も昭和後期のわたしと同じようなことをしていたのだと知り、あらためて楽しい気分になった一日だった。
ちなみに村上氏の「白椿」は三号で終わってしまったそうである。
カストリ雑誌(三合でつぶれる)的運命に倒れたところもなんだか似ている。