20030829

二枚目嫌いでゆうめいな(?)わたしですが、最近妻夫木聡を認識した。なんか好印象。でもそれって実は好印象の友達の男子に似てると思ったからかもしれない。普通にしてるときと笑った顔のギャップと笑い顔自体がそっくりだと思った。でもたぶん「どこが〜?」と言われると思う。わたしが確信をもって似てると思う場合は大抵、当人にも周囲の人にも理解されない。でも、今度一応言ってみよう。あと、妻夫木さんは「あ、知ってました?妻夫木夫妻って書いたら、上から読んでも下から読んでも一緒なんですよ、高校の時に気づいたんですけど」とか言ってて、さらに好印象だった。ちょっと萌え。


長くなるけどこれは書いとこうと思ったんだ。大阪池田小学校児童殺傷事件の犯人、宅間守死刑囚ですけども、彼はちょっとすごいと思う。
もちろん、殺人はまずいし被害者も気の毒だと思うが、でも、敢えて宅間の恐るべきラディカルぶりに焦点を当てて書こうと思う(宅間を心底憎んでいる方は、不快になると思うので読まないことをお勧めします)。

*昨日、死刑宣告されるという日に「最後にちょっと言わせてえな」「どうせ死刑になるんやったら言わせてくれ。たったメモ三枚や」などと言って公判開始2分でつまみ出されたらしいが、動揺したり命乞いをするのではなく、そんなときなのに理に適った提案をしていて、且つ最期に言いたいことをメモ三枚に簡潔にまとめるなんてある種の才能だと思う。普通はできない。
<メモ>発言する機会は今までもあったしそのときには違うことを言いもしたし判決公判に被告の発言は認められてないかも知れないけど、これから死刑宣告される人に対して四角四面に「発言は認めません」と言って外に連れだすのは、どうかと思う。彼の振る舞いは社会のルール(法律)では認られない酔狂かも知れないけど、そんなこと言ったら死刑だって酔狂かもしれなく、少なくとももっと議論を尽くすべきことなのに今の法律で許されているから遂行する裁判官や国は狂ってないのかと問いたい。宅間はそういう表面的なルールとか常識とか本質的でないものと相容れなかった人で、最期まで象徴的な場面だったと思う。

*基本的に、被害者の親に謝ったのは初公判の「生命をもって償いたい」と言った一回だけで、その後発言を撤回。一転して「(謝罪の気持ちは)ない」「幼稚園ならもっと殺せたと今でも思ってしまう」と言い続けているが、これは弁護士などに「たぶん死刑になる」と聞き、命乞いはやめようと思ったのだと思う。その姿勢自体は少なくとも正しい。
<メモ>こういう発言を「遺族の感情を無視した」とか「遺族の願いかなわず」とか書くのは不思議だ。遺族や関係者は嘘でもいいから謝って欲しいのだろうか。子供を殺された揚げ句に嘘を聞かされたら、それこそコケにされたも同然だ。宅間の発言は彼なりに誠実だし、宅間の事実を知らなければ事件を理解したことにならないと思う。そして、自分が宅間だったときに、命乞いをしない勇気があるか考えてしまう。

*「死ぬことは全くびびってません」「しょうもない人生やったら、今回のパターンの方が良かったのかも知れない」この死生観。決して虚勢ではありません(たぶん)。すごすぎます。そして「今回」と言っているのに注目。輪廻転生するつもりなのだろうか。
<メモ>同様の発言として「自分の人生を切り開こうとしたが、どつぼにはまり、転落の一途を辿った」というのがある。まるで他人の人生というか人生ゲームを振り返るかのような発言だ。いわゆる虚無なのだろうが、ひきこもるわけではなくとりあえず死ぬまでに(自殺もよく考えていたようだ)それなりの達成感を感じたいというあがきは方法の是非は別として、理解できなくはない。だいたいが刃物で15人も殺傷するなんて、銃乱射よりずっとエネルギーが必要とされる方法なわけで、さぞかし本人は達成感があるだろう。もちろん、殺されるほうはたまらないが。

他にも彼という人を物語る発言として、拘置所で弁護士に「とりあえず金を送って下さい。しゃばでもそうでしょうが、ここでも金がものを言います。金さえあれば菓子パンも買えるし、いろいろずいぶん違います」のような手紙を渡したと新聞に出ていたことがあった。この即物的思考は瞠目に値する。これを単なるバカと片付けるのは簡単だが、そうではなく、これから死刑になるとしても、とりあえず目の前の日々の菓子パンに執着する、人間の説明のつかない生命力に思いを馳せずにはおれない。

事件自体に話を移せば、そんな宅間にとって、受験を希望したこともある池田小学校の児童やその親が、理想を体現してぬくぬくと慢心しきった存在に見えたのだろう。もちろん他人の芝生は青く見えるだけなんだが。「家庭が安定し、恵まれ、勉強もできた人間でも、展望のない腐りきった自分のようなおっさんに、たかだか5〜6秒で刺されて死ぬ。そんな不条理さをわからせてやりたかった」という発言は「わからせてやりたかった」がポイントだ。裁判官の言うように「小学生ならばたやすく大勢を殺害できると思い至った」ということもあるだろうが(「幼稚園ならもっと殺せた」発言もあるわけだし)、むしろ大人として予定調和ではないこの世の破綻(それを「不条理」と彼は表現している)を子供(とその親と社会)に教えるつもりもあったのではないかとも思う。

といったわけで、いろいろと事件のアウトラインは見えてくるわけだが、顔を隠して「やっと判決が出たよ、と子供に報告できる」と記者会見する被害者の親とか、宅間の発言が不愉快だから公判に出ることを拒む遺族とか、「悪い人は死刑になるんだよと教えたい」と言った池田小学校の教師や「『子供たちに不条理をわからせたかった』などと遺族感情を逆なでする発言を繰り返すだけで」と書く朝日新聞などは、表面的な世界に首まで漬かっている間は、宅間を理解することもできないし、ひいては殺された理由も理解できないままなんだろうと思う。
唯一、顔を出して「宅間を理解しようと全公判を傍聴している」と言っていた遺族は、すごくまともだと思った。
刑はいつ執行されるんだろう。

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