酔っぱらって丹いね子をホテルに連れ込み関係を迫り、断るととんでもない濡れ衣を着せて平気な男、長田秋濤とはどんな人物か、という話。
前回簡単なプロフィールを載せましたが、少し付け加えると以下のようになりそうです。
長田秋濤 おさだ・しゅうとう
明治4年10月5日- 大正4年12月25日
劇作家・仏文学者・翻訳家。本名・忠一(ただかず)。静岡県静岡市西草深町に徳川家直参・長田銈太郎の長男として生まれる。父は早くからフランス語を学んでおり、フランス、アメリカ在住経験があり、パリ公使館、ロシア駐在公使館に勤務。謹厳な性格で秋濤の正反対という。秋濤は幼少時に父とともに上京し、学習院を経て、第二高等学校に入学。明治22年に渡英しケンブリッジ大学で学ぶも日本人差別と公使館とのトラブルから、渡仏。ソルボンヌ大学で学び、4年後に帰国し、岐阜県知事小崎利準の娘の仲子と結婚する。フランスで演劇にかぶれ、しきりに歌舞伎の改良などを唱えるも挫折。川上音二郎や尾崎紅葉らと交わる。水野遵に台湾総督秘書を仰せつかるも一年後に辞職。明治29年、帝国ホテルの支配人となる。明治30年には伊東博文の秘書として再渡欧。帰国後、翻訳や翻案戯曲、小説などを発表する。東京専門学校(現・早稲田大学)には明治32、3年〜35、6年ごろまで出講。この頃から放埒な生活がひどくなり、紅葉館の女中の絹香(お絹)を引き取り、妻妾同居とする。また、お絹を女優デビューさせる。明治36年デュマ『椿姫』の翻訳が出て評判となる。明治39年には露探(ロシアのスパイ)の嫌疑がかかり(後に無罪となった)お絹の死などもあり、華やかな生活に終止符が打たれた。やがて大阪に移り大阪日報をあずかる。この頃愛人にしたのは中検のぽん太という芸者。パリから取り寄せたドレスや香水を使わせ、まもなくふたりで料亭吉田屋を開業、一枝という娘も産まれた(娘は大正3年死去)。明治42年からはマレー半島のゴム園経営に携わり文壇、劇壇から遠ざかる。大正3年8月ごろ病いを得、大正4年12月25日に神戸市垂水区の秋濤荘にて脳溢血で逝去。
秋濤に関する抄伝や当時の記事から見えてくる人物像は、実家は金持ちだが、本人は金に無頓着なため羽振りが良かったり借金まみれだったりしたこと、伊藤博文にかわいがられていたこと(落胤ではないかとまで噂されるほど)、官吏勤めがいやで早稲田で教えたり帝国ホテルの支配人になったり異色の経歴があること、極度の酒好き・女好きだったこと、など。
よくいえば豪放磊落、悪くいえば粗暴で無神経な性格ですね。
好意的な研究でさえ「放蕩、磊落、豪胆、その私生活は無頼を極め、およそ反省の暇もなかったほど恣意的」(布施明子「長田秋濤伝」『学苑』1960.1)、「秋濤の印象は一種の豪傑的風貌をしのばせるものがある。ただし、その遊蕩的な面や幾分衒気のある点に於ては文界のひんしゅくを買うものがあった」(伊狩章「長田秋濤研究」『弘前大学人文社会』1956.9)としています。
肝心の翻訳の方はといえば、概ね好評でよく売れますが、通俗的に傾くきらいがあったようで、明治33年11月「活文壇」には、秋濤の訳すフランス文学は傍流の作品であり、ユーゴーやデュマなどの一流のものに手を付けないのはフランス文学を真に理解していないからだという痛評が出たといいます(伊狩章氏は生田葵山か黒田湖山の筆ではないかと予想)。
その後、秋濤はユーゴー、デュマを手がけますが、原文を数行飛ばしたり、逆に原文にない訳文が加わったりと(当時、多少はあった風潮ですが)全体的に大衆的興味本位のものに陥っていたようです。
同じくフランス文学の翻訳を手掛ける永井荷風、上田敏らによれば、秋濤の意義はフランス文学の初期紹介者だった点に帰すとのこと。
その意味で当時の文壇にある程度の影響は与えたが、態度に一貫性がなく、フランス文学の真髄を伝えることもなかったとしていて、今に名が伝わらないのもそのせいといえるかもしれません。
さて、豪放磊落のエピソードに関してはとどまるところを知りません。
当時の友達が楽しく回想したものも、マスコミが揶揄したものもありますが、眉を顰めざるを得ないものばかり。
例えば百円札を袂から掴み出して見せびらかす、画家の友人が泊まりに来ると風呂場の板戸をブチ破って絵を描かせる、前を歩く芸者の腰をステッキでつついて振り向かせて呵々大笑する、朝の寝静まった旅館に忍び込み最上の部屋で大声で呼ばわって酒を持ってこさせる、酔っぱらうと局部を露出し男性の友人らにも強要、物差しで測って比較する、旅館で墨と硯を運ばせ十二枚の障子や欄間の小障子に落書きする、早稲田の講義は授業そっちのけでパリの娼婦の話ばかりで生徒から排斥の声高し……これらを無邪気とする資料もありますがどうですかねえ。
雑誌『東京エコー』(明治42年1月)に「長田秋濤とは何者か?」という興味深い記事があります。
無記名の記事ですが、気になる個所を引いてみましょう。
彼は単に自己を覆はざるのみならず時として我れは天下の大悪党なりと云ふが如き壮語をなして、以て自ら快とする事がある、小胆な奴は之れを聞いて、直ぐと露探でもやりさうな男のやうに思ふのだが、露探であったか無かつたかは別問題で、露探などは迚も出来る男ではないと云ふのを以て至当とする、彼れに露探が勤まるなら露探位ひ気楽なものはない
第一彼れは芸者買ひをする事二十年で今日に至るまで歌一つ唱へない、況んや踊りをやだ、酒を飲んでヘベレケになつて、それで管を捲いて、口からブーブー泡を噴き出す、不体裁極まる色男と云ふものはないやうだ、色男には手管が必要だが、彼れには手管の意味も了解できまいと思はれる程ボンヤリだ、新橋の芸者の語る所を聞くと、女に向かつて盛んにお絹時代の情事をノロケまじりに話すさうだが、さて彼れの色男たる事の証拠が僅に一のお絹事件のみとすれば、夫れ程の色男ぢやないと云う事が分るではないか。殊に女の前で昔の女の事をベラベラ喋ると云ふに至ては不謹慎も極まれりで、到底色男たるの資格はない。
彼れの前途は如何、新聞記者か、作劇家か、実業家か、これは一寸分り兼ねる、恐らく彼れにも分るまい、が何をやつても何時大した成功はしないだらうと云ふ一点は確実のやうだ
そしてこう結ばれています。
近々仏蘭西へ出立する事は今度だけは確らしい、其資本主は例のカーンである、定めて遊んで来る事であらう、大にやつて来い。
次回は秋濤が紅葉館の女中から女優にまで仕立てた絹香(お絹)にスポットライトを当ててみましょう。
布施明子「長田秋濤伝」『学苑』1960.1
伊狩章「長田秋濤研究」『弘前大学人文社会』1956.9
登張竹風『人間修業』「長田秋濤、因に花井稚翠のこと」1934
九鬼逸郎『兵庫風流帖』「長田秋濤の女歴」
市島春城「豪快児長田秋濤」『政界往来』1937.9
「長田秋濤とは何者か?」『東京エコー』1909.1