20100221



昨日は「百年『と』不良少女 女の子が夜になっても遊び続ける方法」にたくさんのご来場、ありがとうございました。
予想を越えた入場者数で会場はすし詰め状態、丸椅子の足が絡み合うほどの混み具合で、いらしてくださったみなさまには大変ご迷惑をおかけしました。
でも、繰り返しますが本当に12月のイベントのときは来場者が少なくて損益分岐点ギリギリでハラハラしたんですよ…!
やはり木村カナちゃんの西荻人脈と「百年」さんの根強いファンのお陰ですね。
本当にありがとうございました。

最初に2525のライブを行ったのですが、お客様があまりに至近距離におられるので後に夢に見そうなほどシュールな感じでした。
お客様も目線に困って俯かれる始末…(その節は失礼致しました)。
演奏したのは、高橋裕さんオリジナルが「のら猫ジョニー」「ツカナ」「旅芸人の記録」、アレンジしたものが「東京行進曲1993」「東雲節」「深川くづし」、戦前のジャズが「暁の歌」「ヅボン二つ」「毎晩見る夢」、現代曲が「小さな空」でした(曲順などは2525稼業公式サイトをご参照下さい)。
イベント後の打上げではとくに「ヅボン二つ」という曲が褒められました。
これは1931年のフォックス映画『ルンペンの天国』(映画の詳細はこちら)の主題歌で作曲者未詳、作詞は石津豊(堀内敬三の変名)、編曲は井田一郎という黄金コンビ。
「人がモテるといって羨むことはないです/彼といえども踊るときの相手は一人です/パッカードかなんかを堂々ととばすのもいいけれど/円タクで行った道でもおなじことです/人に負けるといってくよくよしなさんな/偉くなってもヅボン二つ重ねて履けますか」という、電車は縦横無尽に走り、情報インフラも整った昭和6年当時ならではの歌詞です。
人と自分の人生を比べる機会も多かったことと想像でき、インターネット文化が繁栄している現代にも不思議にシンクロする価値観ですよね。
これを破天荒人生、軌道をはずれた人生と重ねて(人目なんか気にすんな!)トークの締めにすればよかったーと今ごろ反省。
ちなみに、2525稼業は呼ばれればどこででも演奏するお座敷バンドでもあります。
イベントに音楽が欲しいなーとお思いの際にはぜひぜひお声をおかけくださいませ。
アンプがいらないので野外でも家のなかでもどこでも演奏します。
音も大きくありません。どうぞごひいきに。
(CDはすでに録音済みで資金面で寝かせていたのですが、今年こそ出したいと思ってます)

さてさて肝心のトークですが、すごく楽しかった! です(わたしだけかもしれませんが)。
やっぱり気やすい友だちとの話は楽しいなあとあらためて実感。
ちょっと地が出過ぎたかな、と思うほどでした。
話に出た、わたしが気になってる女性「本荘幽蘭」については、以前別なブログに書いたものを下に転載しておきます(幽蘭については2014年現在、評伝を書き下ろし中です)。
あと「多摩のマライア」まとめサイトはこちらです。

ともあれ、昨日はありがとうございました。
またライブやイベントなど行う際には遊びにきて下さいね。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

-----------------

【本荘幽蘭】(本名:久代または久代子) 1879-?

父は久留米藩の要人で明治には大阪商業会議所の理事や弁護士などを勤めたという本荘一行。幽蘭は1879(明治12)年に生まれ、十代で父のすすめるままに結婚したものの姑と折り合わず離縁。好きな人と添えなかったことなども相まって悩むうちに精神を病んで巣鴨病院に入院します。退院後の1900年ごろに明治女学校に入学。学校では自作の文を朗読したり、演説したり、俳句をひねったりと才気煥発なところを見せましたが、幽蘭の師である青柳有美によると、このころから師を師とも、男を男とも思わなかったとのこと。しかし、容姿は「総体に均整のとれた美人型」で、ある先生は「宗教的顔(レリジュアスフェース)」と形容するほどの美人だったようです。卒業後は、新聞記者になり(本人は女性初と吹聴していたが事実ではない)その後転々と職を変えて再び『千葉新聞』の記者に。1907年末には「幽蘭女史吉原遊郭角海老楼に身売をなす」という記事が出、新宿「中村屋」の夫人で同窓でもあった相馬黒光は「女史の乱行、非常識はいまに初めぬことで、世間ではもう至るところで愛想を尽かされ、淪落の女として顰蹙されてはいるのですが、根は至って正直な人」だと考え、大切な開店資金で彼女を身受けしようと角海老楼に電話したところ「女史は吉原の遊郭を一軒毎に買ってくれと頼んで歩いたけれど、その様子から言葉つきから教養のある女性だということが一見あまりに明瞭なので、廃娼運動のまわし者だと疑われ何処の店もみな怖れをなしてことわった」ことがわかったという。その後の幽蘭は、上野に幽蘭軒という餅屋を開店してすぐに畳み、本郷座前にミルクホールを開店。翌春にはこれも畳んで姿を消し、2年後に現れたときに何をしていたかと問えば「神出鬼没の第一着へ大阪へ立廻り、編笠女幽蘭餅と唄われた後に外妾(らしゃめん)と早替りをなし、西の宮へ蘭の茶屋を出すかと思えば、Mパテーの活動弁士となって四国へ落延びた。高知で田舎廻りの女優となり、釜山に渡って絶影島医院の看護見習いとなって色狂人(いろきちがい)を全快させ、一旦久留米に舞戻って『九州毎日新聞』の女記者となり、又候(またぞろ)女優となって韓国から天津に出て芸妓になり、大連へ退却してホテルの女将になったのも束の間、須磨で異人の妾になって徘徊した果てが逐々江戸へ舞戻って来た。口上に曰く『巣鴨の明治女学校跡を借受けて施療患者中の全治退院者を収容する筈』とは化けも化けたり」(『報知新聞』1910年7月15日)。たった2年の間に職業を9つ変え、東京から関西、九州、果ては韓国や中国にまで行っていたとは開いた口がふさがりません。とはいうものの、これらはあくまで幽蘭の口から出た話。嘘とはいわないまでも、半月ももたなかった仕事も数えているのでしょう。ともあれ、記事に書かれた明治女学校跡(前年に経営難で廃校になっていた)に「精神病全治者救護会」をつくる計画は頓挫し、記事の2ヶ月後には熊本県人の戸上哲男と結婚すると通知。しかし、その後、社会主義者福田狂二と結婚したとも報じられます。実は幽蘭、「正当に結婚した男の数だけでも十八、九人、八十人以上の男と関係」(青柳有美)し、幽蘭自身が『サンデー毎日』に連載した自叙伝には「自分はいま九十何人目かの男と一緒にいる。直き百人になる」とあったらしく、それを読んだ黒光は「全く肝を寒」うしたそうなのです。それにしても普通じゃちょっと考えられないようなエネルギーで、違う星から来たとでも考える以外、説明がつきません。ちなみに、自称「本邦初」の新劇女優(浅草金龍館でオペレッタ「チョコレートの兵隊」を幽蘭が演じていたのを木村駒子が見たらしい)をした後の大正以降は、落語家、浪花節語り、女講談師になります。講談師は長く続けたらしく(演し物は「没頭せる恋の威力」「我精神病時代の追憶」などの創作講談、つまり自分の半生を語って全国行脚していたもようで、実際に見た人曰く「やたらにテーブルを叩くだけ」で「下手くそ」だったらしい)なんと1953(昭和23)年には『講談研究』というパンフレットにまだ続けている旨を書いていたそうです。この時点で75歳だった幽蘭が、いつ亡くなったかの手がかりはないそうですが、ここまでの人(いろんな意味で!)もなかなかいないように思います。『破天荒セレブ』から似た人を探すとすれば(幽蘭の方が年上ですが)宮田文子型でしょうかね。

●まだある破天荒エピソード
*大正半ばには剃髪して「幽蘭尼」などと名乗り『本荘幽蘭尼懺悔叢書』なる本を出版しようとしていた。
*一度でも関係した男の名を、漏らさず記載する「錦蘭帳」と称するノートを持っていた(ノートの名は「地獄帖」説あり)
*四十を越えたころ、シンガポールやボルネオで娼婦を営んでいた。髪を二つに分けて派手な格好をして講演会を開いていたとのこと。上海、スマトラなどにも出没し「これまで持った48人の亭主を電話で呼び集めて酒を飲みたい」と気焔を上げていたらしい。

《参考文献》『女のくせに 草分け女性新聞記者たち』江刺昭子(インパクト出版界、1997年)、『黙移』相馬黒光(日本図書センター、1997年)、『近現代日本女性人名事典』(ドメス出版、2001年)、『明治おもしろ博覧会』横田順弥(西日本新聞社、1998年)