ここ4、5日、夕方から朝方まで(途中、用事を挟みつつ)コーヒーとお菓子とを和室に持ち込んで、全長1.5m大の虎のぬいぐるみパンピネオにもたれながら、武林無想庵の『無想庵物語—巴里の腹へ』『イヴォンヌ—無想庵物語』『無想庵物語ー放浪通信』(すべて記録文化社)を耽読していた。
3冊合わせて背幅約15cmのボリュームだが、文字が大きいのと無想庵という人への興味でやめられない、止まらない。
ほかにも課題図書はあるというのに、暇さえあればとっついてしまう、一種の中毒症状に陥ってしまった。
それまでの無想庵に関するイメージといえば、拙著『20世紀 破天荒セレブ』でとりあげた宮田文子の元夫で、妻にふりまわされるマゾっぽいインテリ、浮気されても何も言えず、どころか『「Cocu」のなげき』なんぞという自虐的な小説を書いたちょっとじめじめした性質の大男、というものだった。
いや、これさえも無理に文章化したまでで、厳密にいえば「よくわからない人」だった。
ともかく、フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語を操ることができ、古今東西の宗教や哲学や文学に詳しく、摩訶止観すらも読み下す博覧強記でありながら、大きな文学的業績はない。
つまり、なんというか野心や虚栄心がない。
恋愛に関しては、異父妹、異父妹の友人数名、人妻と関係するなど、社会的モラルを一顧だにしない鬼畜ぶり。
文子との関係も、彼女が一方的に利用したのかと思いきや「わたしはいつも人生に対して何等の目的を持たぬ。食物と性欲を充たしてくれ得る境涯に置かれてさえあれば、常に満足しているような、全く動物的な人間なのだ」と開き直り、「文子にとっては、わたしは今明かに便利な乗りものなのだ。なる程牛に相違ない。そうしてそのうち乗りかえられるべき馬をば、文子が発見するまで、わたしは文子に鞭うたれつゝ、メソメソと歩いていればいゝのである」(ともに「放浪第三信」)と被害者を決め込む。
どうやら結婚当初から暴力もふるっていたらしい。
言動を列記していくと徹底的にいいとこなしの男なのだが、そんな男の書いた『巴里の腹へ』『イヴォンヌ』『放浪通信』の、どこに魅力があるのかといえば……。
これらはおもに、戦前の上海、北京、シベリア、アントワープ、ベルリン、ジュネーヴ、ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、パリ、ニース、京都(比叡山)、鎌倉、静岡、名古屋、東京をめぐる放浪記なのだが、恐ろしく知識のある無想庵の目に入る街は単なる街ではなく、山は単なる山ではない。
小説や歌や絵画や哲学や科学や宗教が数百年、数千年降り積もった、人類の営為の結晶なのだ。
何を見ても、誰かの小説や演劇や歌を思い出し、作者の家や墓に出かけ、作品のなかの空想の街と目の前に広がる現実の街を重ね合わせて感慨にふける。
ある種の奇形的行動なのだが、読者は博覧強記なガイドと一緒に世界中を巡っているような楽しさがある。
パジャマで寝っころがりながら世界中を旅できるなんて、それこそ読書の本懐ではありませんか。
こんな素晴らしいレポートを、作品を、貧しいホテルを点々としながら妻子を養うために(途中から妻子は他の男性に寄生するけれど)必死に絞り出しては日本に書き送っていた無想庵に、大きな文学的業績はないなんてよくいうよ!(と先ほど書いたのはわたしだけど、世間的評価もそのようなものです)と思うけれど、一中、一高、東大文科卒のエリートで、明治大正昭和を股にかけて82歳まで生き、盲目になって3番目の妻に口述筆記をしてもらいながら私家版「むさうあん物語」21冊(後45冊で完結)を出すほど晩年の晩年まで執筆していたにも関わらず、葬式は石神井神社の裏で40人ほどで執り行われた(図らずも同日に葬式をした室生犀星は芸術院会員として青山葬儀場で盛大な式をあげた)一事を見ても、彼に対する評価が知れようというもの。
まったく不公平極まりないと義憤にかられるけれど、その理由についてはなんとなく思い当たるし、彼自身よくわかっているように見える。
ひとつには、主義に属さなかったことだ。大正から戦中までのインテリ層はとかく何らかの主義を示さずにおかなかったところがある。プロ、ボル、アナ、ダダ、虚無、警官までが職務質問でいきなり「お前は何主義だ」と聞く時代である。しかし、元来インテリとは巨視的で、何に対しても懐疑的であるのが本当ではなかろうか。無想庵はそれであったし「ピルロニストのやうに」という作品もある(ピルロニストとは古代ギリシアの懐疑主義哲学者「ピュロン」の「徒」の意。ちなみに晩年突然共産党に入ってみんなを訝らせたが、戦後の言論の自由を謳歌したかったためのように見える)。
二つ目は、やっぱり野心がなかったことだろう。お金の無心や職の斡旋は頼んだが、それはあくまで食べるためのことであって野心ではない。野心がないということは、弱味がないということだ。弱味がなく、美丈夫で、博学で、モテモテな無想庵はさぞ生意気に見えたと想像する。
三つ目は、金もないのに出版社に前借りを繰り返しながら人がうらやむようなヨーロッパ放浪生活を続けたエゴイスティックな性格だ。しかし、性格だからこればかりは仕方ない。そして、極端に世知に疎く他愛もなく失敗するので、人をしてサディスティックな気持ちにさせる部分もある。
ともあれ、金を作りに何度も帰国し、仕舞いには中央公論社に「あなたやあなたの奥さんにはもう何度も前借りされましたし、あなたにどんな新しいプランがあろうとも興味はありません」(大意)と言われるまでに堕ち、それでも文子からは「早くお金を作ってパリに戻れ」といわれ、最愛の娘には腰抜け呼ばわりされながらなんとか日本に連れ帰ったものの背かれ、自殺未遂や女給仕事をされる始末。
屈辱的な生活に明け暮れるうちに盲目になり、その後もいくつかの翻訳が全集に入ったりしたものの、文学界からはほぼ黙殺状態。
けれども、仏教に親しんでいた無想庵にとって、すべては「諸法因縁生」。
誰を恨むでもなく愚痴るでもないのである。
「ピルロニストのやうに」にこんなくだりがある。
この世智辛い世の中に、何事もたゞ金ばかりで解決が出来さうに見えてゐる世の中に、私は悠々閑々として棲息してゐる。即ち金になりさうな事には全く頭も手も使はずに生きてゐる。自分ながら随分愚かな人間だと思ふ。随分無能を極めた人間だと思ふ。でも仕方がないと思つてゐる。かういふ風な傾向を持つて生まれて来たのだから止むを得ないと思つてゐる。奮発といふ事をしなければ、努力といふ事をしなければ、人生は果して過してゆけないところだらうか? それが為に若(も)し人間が必ず自滅する筈に出来てゐる人生なら、私は晏如(あんじよ)として自滅するより仕方がない。昔は従容として死に就く事を士(さむらひ)の本分だと心得てゐた。犬死でも何でもかまはない。金をとる努力をしなかつた為に、私は従容として死に就かう。さう覚悟して私は生きてゐる。
私のやうな人間が多くなれば、その社会は必ず堕落する。その国家は必ず滅亡する。私は社会主義者の敵である。私は国家主義者の黴菌である。けれども生物学上の見地からすると、一主義者の敵も、一国家の黴菌も、それ自身としては、必ず溌剌たる一箇の生物である事を忘れてはならない。
また「生きようとする力」にこう書いている。
「芸術」というものが存在する、この世の中ではない、ある特殊の空想世界が、ほとんど全く消滅して了った小生の頭には、ピカソでござれ、マチスでござれ、その他、さまざまな新しい表現派やダダイストの人々でござれ、その人達のどうかして本当に生きよう生きようと悪戦苦斗している努力を除いては、全く何等の感銘もありませんでした。そうして人間の、いや生物の、そうした本当に生きよう生きようと悪戦苦斗する努力は、何も芸術いじりをしつけて来た習慣を有する人達に限ってことさらに賦与されてあるわけでも何でもなかったのです。すべてが悉く一木一草だったのです。一塵一埃だったのです。アッという一刹那の、生そのもの、飽までも生きようとする力だったのです。その力の価値だったのです。
社会の役に立つだとか、芸術を進化もしくは深化させるとか(いわんや受賞などで他人に承認されるとか)いうことはどうでもいいことである。
この世に生を受けたら、それをただただ真っ当すればいいのだ。
それこそが、生きることの意味であり、意義なのだ、という地点にまで至っている。
逆説的にいえば、この地点こそが芸術(作品、作家)の存在理由ではないだろうか。
人がいて芸術がある。
生を真っ当するための営為としての芸術がある。
その順番は飽くまで逆ではないのである。
山本夏彦は『無想庵物語』で辻潤と無想庵を「二人は共に野心がない欲がない、人を凌ごうとする気がない。これらはいわば「ダメの人」だと突然私には分かった」と書いている。
自身をも「ダメの人」と称するように自嘲気味な反語的表現だ。
しかし、芸術家が野心や欲をかけばそれはもはや芸術家ではない。
山本夏彦は常識人なのだろう。
しかし、こと無想庵にそんなものを求めるのは、そもそもお門違いだ。
ずいぶん前に買って積ん読だった無想庵訳の『サニン』、そろそろ読み始めようと思う。
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