現存する作家の中で唯一出版されたら買って読む金井美恵子の『待つこと、忘れること?』を読了。
相変わらず好きだけど、文章も年をとるのだと当たり前のことに少しがく然とする。
「ほのめかすという書き方も生き方も、『いやだ』と、まだ若かった私は思い、今も、そう思」っているのに、存外、ほのめかしが多いように思うのはなんだか鼻白まないでもない。
これはそれとも「意識の流れ」のつもりなのか、だとしたら意識の中でも0.数秒で人間は皮肉や何かを匂わすことをチラリと考えることはあるから、やはりそれもほのめかしに感じる。
好きだからこそ批判してしまうファン心理というものは非常に厄介で、自分でも持て余してしまうものだけど、やはり金井美恵子の本といえば姉の金井久美子の挿絵と装幀なわけで、この人も金井美恵子の本以外ほとんど見かけることがなくて(もしかしたら友人の本でも仕事しているかも知れないけど)ときどき展覧会を開催しているようだけど、それにしても一体どうやって暮らしているのかと見るたびについ下衆の勘繰りしてしまう(「画家」の叔父がわたしにいるが、彼のように画廊がついてお財布代わりになっているのか)。
明らかに稼ぎのいい妹が、姉の言うことをきいている感じも気になる。
そして装幀の仕事を少しばかりしている身として、こういった宮部みゆきレベルでない文学書の装幀予算は一体いくらなのかはわからないけど、台によって色を変えて4色ページが大量に挟まっているのはなんなんだろうとか、ベストセラーにはならないまでも業界内ファンの多い姉妹のことだから、予算はわりと融通が利いていて、ふたりで「こうしたらいいんじゃない?」「あ、かわいい」みたく千代紙でも選ぶようなつもりで「楽しんで」おられる姿が、なんとなく思い浮かぶ。
これって、本書の中にある「人の結婚生活を『ままごとみたい』と笑う、生活に疲れた『馬鹿ババァ』(ここのところの罵詈雑言はポイントなのでもう少しひねりが欲しかった)」と同じ発想?
でも、これは「画家の姉と小説家の妹と、愛猫トラーが腕を振るった44皿」の料理にまつわるエッセイなわけで、「料理に何の興味もない」と言い続けて33年のわたしに、にわか料理ブームが到来したのはこの本のおかげだし、ところどころに入る少女・金井美恵子のエピソード(国語の教師が教科書にある「なるほど、という言葉を子供がつかうのは生意気に聞こえる」個所を読んだところで、間髪を入れず「ナルホド」と合いの手を入れたら、烈火のごとく怒り狂って悪口をわめきちらした話など)は文句なしにかわいいし、好きなものに対して際限なくあだ名を付けるわたしにとって、丸まっている愛猫トラーを「巨大タロイモ」と呼んだり、長く延びて眠っているさまを「ブッシュ・ド・ノエル」と呼んだりする感覚は手袋のようにぴったりと馴染む。
それにしても「オヤジ」や「ババァ」を生理的嫌悪の対象として書くのは、もともと排他的で閉鎖的で自分の感性大好きな「乙女」に相容れない自分を差し引いても、客観的に、つまり年齢的にもう無理があるのではないか、と思わないでもない。
最後に「インターネット上のクソ文章」という一文は、嫌いなものでもつい見てしまう女の「性」みたいで、女として思い当たり、思わず目を細めさせたことを付記しておこう。
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