最近、お風呂で暮しの手帖社の「スポック博士のティーンエイジャーのための性教育」という本を読んでいる。
「お風呂でなんという本を読んでるのだ!」などと、お風呂→裸→性教育という単純な図式で顔色を変えるような純粋な人もいたわけだけど、理由は、単純にビニールカバーが付いていて水に濡れても大して気にしなくてすむ、というだけのことである。
それにしても、わたしは十代向けの小説や哲学書や解説書が大好きで、それってもしや自らの知能の問題かとも思うのだけど、実は非常に繊細な書かれ方をしているからだ、とも思う。
大人向けの本というものは(つまり、大人に向けて書いていることを作者がことさらに意識しているような本は)慨してひとりよがりだったりすることがあって、それは、社会に出ると職種や趣味嗜好など、自分に近い人とばかりいるようになるからだという気がする。
学校や近所などの半ば不可抗力の集団に属し続けなければならない場合の、感覚の齟齬に対する理解力は失いたくないものだ。
それは、サバイバル術などのテクニックであってはならないとも思う。
まあ、それはそれとしてこの「Dr. Benjamin Spock A Teenager's Guide to Life and Love」という本だけども、もちろんいくつかのズレなり博士のバックグラウンド、ひいてはお人柄が透けて見える感じは否めない。
1970年という、大人、ウゼェ&フリーセックス最高!な時代に「ここはひとつ十代向けの「正しい」性教育の本を書かにゃあならんて」などと思った(多分)、教育者としては真っ当だけど単純すぎる感のあるスポック博士の、「ピューリタニズムと言われようとも、これがわたしだし、これが変わったといってもまだまだ変わらん世の中の声なのだよ。もちろんこの本の性格をはっきりするために敢えて実際のわたしより固いことも書いちゃったけどね」風スタンスが鼻についてしまって、「スポック博士の育児書」をバイブルに育てられた70年生まれの、80〜90年までが十代だったわたしですら、ちょっとウゼェと思ったりもする。
それと同時に、多岐にわたる人間なり自然なりの有象無形に対して勝手な言い切りをして、それを前提にしなきゃ何も進まない「学問」の不幸も感じたりもする。
知(ち)って、既成概念とか世のことわりを捏造したり教唆したり追随するためのものじゃなくて、間違いもアリの多様性を認める楽しくて生き生きした世の中をつくるためのもんじゃないのお、実際できるかどうかは別としても、あ、でもここまで書いて思ったけど、スポック博士って多分当時ですら超保守派で業界内でも「終わってる」人だったのかもしれない。
今でもとっくに「終わってる」のに権威という大樹の影によるのが上手くてなぜか10年も20年も延命してる人っているわけだから。
まあいいや、それはそれとしてわたしはここでもっと「正しい読者」したいのだ。
それは作者がどうとか時代がどうとかいうよりも、書かれた内容を自分に投影して感情移入してしまう感じ、烏合の衆、サイレント・マジョリティ、あの衆ら(すみません、単なる静岡弁です、初めて聞いたときびっくりしたので)その他もろもろなんでもいいや、純粋に読んで「これってわたしかも」とか「これってふつうなの?」、もっと言うと最近自分の身に起こった精神上のリョージョク事件(大げさな)をこの本とからめてみたいと思ったりもしたわけだ。
例えばその事件というのは、この本でいうところの「男がよくやる手」で「『だってきみはぼくを好きだといったじゃないか…なにがわるいんだい…きみ、なんにも感じないのかい…いやだなんて、ちょっとヘンだぞ…どの女の子もみんなやってるじゃないか…ぼくのこういったところがイヤなら、もうきみとのデートはこれっきりだ…男には強い本能があって、がまんできないんだよ』とおしつめてくる」(本書引用。以下同)ようなことだったわけだけども、それが知りあって10年以上経つ関係の、信頼してた50近い人で、且つ相手はそこまでわたしに打撃を与えたとは思っていず、良好な反応だったと思っているはずなのも含め、非常に後味の悪い体験ではあったわけだ。
こういう人は、言を右左して相手を振り回し、ちょっとできたすき間に入り込んでくるようなところがあって、そのとき「たやすく議論に引き入れられるのは、心の奥底でじぶんに自信が持てないからです。(中略)たいして好きでもない男にもてたいからといって、ほんとうに愛する人のためにとっておきたいと思っているものを、むざむざとすててしまうことはない」と考えて毅然とした態度をとれなかった自分も「自尊心のかけらまで犠牲にする」「じつにおろかな取引」をしたと痛感してしまったわけですな。
でも、どうしてそんな羽目に陥ったのかと振り返ってみるに、「いちどのぼせ上がると、もう、相手がじぶんを愛しているのか、趣味が合うのか、お互いにかけがえのない人間なのか、すべてを投げ出しても悔いはないのか、といったことを考える余裕が」なくなるような短絡的思考回路と、男の人の常識的且つ普遍的なささいな嗜好を発見しただけで「ペテン師のようにみえて、すっかり失望し、腹が立ち、打ちのめしてやりたいような気持ちに駆られる」わたしの幼児性だったり、「失恋したとおもいたくないから、それを打ち消すために、<反動的に>急に別の人に夢中になったりしやす」い刹那主義的行動と、「絶対に分からないという自信があるときは相手を欺いてもいい」といった処世術の欠如と、「往々にして、特殊すぎて相手がのってこれないようなテーマとか趣味とかを、夢中でしゃべりつづけたり」しがちなおめでたい感じをミックスしたわたし自身の、絶妙なハーモニーの賜物だと、思えないでもないのだからつける薬がない。
まあ、それやこれやでひとり若者向けの性教育本を手に、落ち込んでれば世話はないのだが、最後にひとつだけ。
「肌をみせるような服をつけていたり、誘惑的な態度をとる女性は、最高の性感を持っていると考えがちです。しかし、ふつうこれは大ちがいです」とだけ言わせてくれ(引用しといてアレだけど、最高の性感って何?好色という意味?それとも逆に露出気味の人は不感症だと言いたいのか?)。
※例えば、以降「」内は引用で、できるかぎり原文と表記を一致させたが、原文自体に統一がなされてないのが<例:激しい、人、自分など>この出版社のナゾのひとつ。
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