20101024

ふと思い立ったので、6年ほど前に書いた読み物を数回に分けて掲載していこうかと思います。
タイトルはまだなく、一章だか二章だかくらいしかありません。
今後、何らかのモチベーションが高まれば続きを書くかもしれません。
「白熊くん」という商品名を持つバイブレーターの冒険記で、野崎孝訳のサリンジャー的口調でやってみました。
一気に掲載するには長いので適当なところで切って続けます。
こちらからは以上です。


------------------------


 本当のことを言って、俺がこの話を格別にしたがっていると思われるのは困る。
 今日という一日をそれこそ最初から最後まで順を追って話すとなれば、「汝自身の胸に問うて式」の正直さをもって執り行わなずにはいられないすこぶる厄介な性癖が、時節をわきまえず顔を出すだろうことは自明の理だし、そうなれば俺にとって若干ばつの悪い場面もおいそれと省くわけにはいかず、となると話し手の人となりに関してある種懐疑的な見方をする不届者が出てくるとも限らんのだ。
 何がいやって、例えば俺のささやかな冒険談のなかの数少ない血湧き肉踊る情景をまさに光彩陸離たる描写でやっているときに、聞き手のひとりに、ちょっと小鼻の端を掻いたその手の動きを意地でも見逃すまいと言わんばかりに凝視されたりなんかすることほど、腹立たしいことはない。
 あるいは、震えがくるほど緊迫する場面で、秒単位まで計算し尽くした効果的な静寂を挟んでいるときに、女性がよくやるように「それ、誰が言ったの?」だとか「そのときその人どんな服着てた?」だとか挙げ句の果てには「ちょっとそこのペンとってくれる? その、あなたが下に敷いてるやつ」などと、なんともあっぱれな間の手を入れられたりするのもそうだ。
 そんなふうに、人の話の最中にだしぬけに興味を打ち切って気を散らせ始めたり、不真面目な態度で臨む輩のなんと多いことか。
 とはいえ、集中力に不足のない慧眼な読者なら口笛を吹いて喝采する話なのかと問われれば、残念ながらそれもまた首肯しがたい。
 この俺ですら、俺自身にちょっと懐疑的にならざるを得ない、そういった部分もなくはない、と思わないでもないのだ。
 のみならずそもそもの話自体が、てんでとるに足らない、いわば野に咲く名もない一房の雑草ともいうべきものであるという危惧もある。
 そんなあれやこれやを鑑みて、どうも話すのは得策ではない気がするのだが、一方で、自らについて語る誘惑を一顧だにしない孤高の人格者というわけでないことも、申し添えておきたい。
 あくまで、そういった逡巡をしながら、ということが伝わるならば、まあ話してもよかろう。

 剥げちょろけたシャッターが絞め殺された豚みたいな声をあげながら大儀そうに少しずつ上がっていく。
 今日も、寸分たがわぬいつもながらの儀式で始まった。
 サッシのドアに掛かっている時計は六時半。
 開店時間は六時のはずだが、まあそれはいつものこった。
 この掛時計というのがいささか忘れがたい存在であることを、多少露骨なきらいがあるにせよ、ここで「言葉のしおり」程度に付言しておこうか。
 それ自体が左方向に四度ほど傾いて掛かっていることもさることながら、もともとピンク色だったプラスティックの太い枠は、経年のほこりと湿気でフリーマーケットでよく見かけるたった今火事で焼けだされたみたいに垂直に逆立った髪のビニール人形のごとくうす汚れたベージュにまで色褪せている。
 命の灯火がまさに消えなんとする瞬間に思わぬ映像が脳裏をよぎるというが、まさにこの時計などはうってつけ、完全なる人生最期の走馬灯向きの、格別に傑出した色かたちだと言い切れるだろう。
 シャッターがやっとこさっとこ上がりきると、天井から下がったビニールのヒラヒラの向こうから夕日が幾筋か差し込んできて、照らし出された店内のほこりは、さながら地獄の嵐に吹きまくられて阿鼻叫喚する魂の群れといった風情を漂わせる。
 『神曲』顔負けの状況下ながら、毎日さしたる不便も感じぬままに息をしていられるのだから、客も店主もいやはやご立派なもんだ。
 その立派な御仁こと、この店の主にして勇敢なる我らがダンテは、ドアの鍵を開け、つっかけサンダルをコンクリートの床にずさーっずさーっとこすりつけながら、混じりっけなしの天然スモークの中からそれと意識しない荘厳な効果を演出しつつ現れ出たところだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿