20160307





『20世紀 破天荒セレブ』上梓後に見つけた破天荒な女性を紹介する「続・破天荒セレブ」。
トップバッターにはこの方に出ていただきましょう。
その名も、丹いね子(稲子)、通称「丹いね」。
どんな女性かざざっと説明いたしますと。



執念の女
丹いね子  たん・いねこ
明治27(1894)年京橋区生まれ。第一高女卒業後、東京音楽学校に入学。在学当時S(エス。親密な女友達)だった原信子とトラブルになり(発端は、生徒監がいね子の父に「原信子は風評が悪いから交際させない方がいい」と言ったため、いね子が原に絶交を布告したことに始まったという)、いね子は原に飲まされたリキュールのせいで声が出なくなり東京音楽学校中退を余儀なくされる。世間ではこれを「水銀事件」として騒ぎ立てた。自殺未遂後、作家らの力添えで毎夕新聞記者となり、原が松井須磨子、尾竹紅吉と女性誌『番紅花(さふらん)』を創刊するといね子は『婦人文芸』(大正3年5月〜大正5年12月)を創刊、原が有楽座でオペレッタに出演するといね子も音楽会を開催するなど、悉く対抗した。ちなみに青柳有美『女の裏おもて』によると、いね子は声がいいわけでも文章が上手いわけでもなく、大して変った女でもない、けれども主宰の『婦人文芸』は毎月1000部で4〜50円(現在の3〜40万円ほど)の純利益、レコードを吹き込んでギャラ200円(現在の150万円ほど)、曾我迺家五九郎一座に脚本を書いたり化粧品「玉の肌」にコピーを書く、音楽会も入場者数が毎回800人以上純利益400円内外(現在の300万円ほど)と商才に長けていることだけはすごい、と讚えている。齢22歳で「妾(わたし)は有楽座へでも帝劇へでもただでは来ません。芝居を観ながら商売してるんだから豪いものでしょう?」と嘯いていたらしい。その後、「いなづま自動車商会」(ハイヤー業)経営や歌劇団創立などに奔走。大正15年3月13日には料亭「丹頂」開店。昭和4年にはカフェー「丹頂」のマダムとして「カフェーから見た男の味」をレコーディングしている。


いね子が「セレブ」かと聞かれると微妙ですが、まあまあ有名人くらいに思っていただくとして、世間に知られた最初が、原信子とのトラブルというのがすごい。
そして、内容もよくわからない。
いきなり生徒監が親を呼び出して仲のいい生徒同士を引き裂くものなのか?
その件もさることながら「水銀事件」にしても、照山赤次『名流夫人情史』の「丹いね子女史」(いね子自身の語り下ろしらしい)には飲まされた経緯として、原に麻布の「龍土軒」に呼び出されペパーミントリキュールを勧められるままに二杯飲んだところ、夜に下痢に苦しめられ、翌日声が出なくなったので医者に行って言われたのが「中毒性急性咽喉炎」だったというのだが、どこに水銀と決めつける要素があるのか謎である(いね子は「あれを水銀事件」といっていいかどうかハッキリ存じません」〈『名流夫人情史』〉としているのでマスコミが言い立てたのか?)。いね子曰く、原がそんなことをした理由は、半年前に明治天皇崩御にあたり奉悼歌をレコードにする際、先輩の原を差し置いていね子に白羽の矢が立ったことを逆恨みしたためというのだが、すべてはいね子の言葉なので真相は闇の中だ。また、原がいね子を中傷する投書をしたというその内容も「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」(『名流夫人情史』)説もあれば「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」(『私の古本大学』)説もある。この二つは大違いの気がするのだが……。原との関係に関しては要調査です。

そうそう、原信子のプロフィールも簡単に記しておきましょう。

原信子(1893年 - 1979年) 大正から昭和に活躍した国際的オペラ・ソプラノ歌手。東京音楽学校を中退しハンカ・ペツォールト、アドルフォ・サルコリに師事。帝劇歌劇部でジョヴァンニー・ヴィットリオ・ローシーの指導を受けて教授待遇を受け、渡米。帰国後に帝劇歌劇部、赤坂のローヤル館を経て原信子歌劇団を結成。浅草オペラのスターとなる。その後もマンハッタンオペラ出演、イタリア留学などを行いマスカーニの知遇を得た。日本人初のミラノ・スカラ座出演。原信子歌劇研究所で晩年まで指導にあたった。

ま、文句のつけようのない経歴であります。
いずれにしても、いね子は才能云々よりも基本的に出たがりで自己宣伝好き、マスコミに吹聴するタイプ。
そんな女性は当時何人かいたものの、負けず嫌いで執念深いところが出色です。
たとえば「丹頂」をはじめたときの新聞記事がこちら。



大正15年3月14日付読売新聞

「算盤を弾く……丹いね子 鳥屋の女将に納って」。
決して美人扱いではなく、「丹いね子の女将ぶりはさすがさすが」と商魂のたくましさに感心しているようなバカにしているような書きっぷり。
こんな感じで明治末期から昭和初期の新聞や雑誌にはしばしば顔を出す丹いね子の記事をつないで、次回は判明した限りの簡単な年表を書きましょう。

青柳有美『女の裏おもて』
松本克平『私の古本大学』
照山赤次『名流夫人情史』