20160308







さて今日は、予告通り丹いね子の年表を載せてみます。
実は、調べものの合間に見つかった手持ちの記事を繋ぎあわせて暫定版としてアップする予定だったのですが、今日国会図書館で見ていたら晩年まできちんと調べられた方を発見!
これを参考にするのも申し訳ないけど、知ってしまった以上は参考にするしか……というわけで「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」(大和田茂『社会文学(2)』1998.2.より)の記述に大きく頼って年表に加えました。
年齢はかぞえではなく実年齢(12月生まれなので実質の年齢)。


明治27(1894)年 0歳
12月10日:京橋区加賀町14番地(現・銀座八丁目辺)で丹霊源、はるの6人兄弟の長女として生まれる。

年不祥
芝公園の共立幼稚園に入園。

明治40(1907)年 12歳
3月:東京芝区御田尋常小学校卒業
4月:東京府立第一高等女学校入学

明治43(1910)年 15歳
日本女子大学校女学部高等科へ転入

明治45、大正元(1912)年 17歳
3月:日本女子大学校女学部高等科卒業
4月:東京音楽学校予科に入学。研究科に在籍していた1歳上の原信子と親しくなる(エスの関係?)。
夏:文部省邦楽調査会の本居長世(童謡作曲家)に命じられ、明治天皇崩御(7月30日)の奉悼歌をレコードに吹込む。
12月5日:原信子に誘われ麻布の龍土軒にて振る舞われたペパーミントリキュールを飲んで中毒性急性咽喉炎となる。帝大病院に入院。
12月31日〜:新聞各紙にいね子の中傷記事(「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」など)が出たため、その日の夕方に病院を抜け出して自ら新聞社に赴き洗いざらいを話す。これが「水銀事件」として騒動になり警察まで出動したが、もともと音楽の道に進むことを反対していた父が「原さんはむしろ恩人」と問題にしなかったため収束した。

大正2(1913)年 18歳
1月:療養を続けたが元の声は戻らず退院、学校を自主退学する。自殺未遂も起こしたが、同情した井上与十の力添えで「毎夕新聞社」に勤め、音楽記事を担当。右の頬に弾傷を持つ青年飛行家澤田中尉と熱愛するも渡仏され、失恋。

大正3(1914)年 19歳
5月:原信子が女性誌『番紅花(さふらん)』を創刊したことに対抗して『婦人文芸』(〜大正6年2月頃まで)創刊。また、原が有楽座でオペレッタに出演するといね子も音楽会を開催した。

大正4(1915)年 20歳
3月:公開状「原信子に与う」発表(『廿世紀』第二巻三号)
6月末:文芸坐興行「悪魔の曲」(脚本:林和)のモデルとなる。
秋:文学者・長田秋濤とバトル勃発。

大正5(1916)年 21歳
2月11日:ニコニコ倶楽部創業五周年記念に阪本式トラクター複葉飛行機(発動機カーチス80馬力)に乗って代々木練兵場から帝都訪問飛行を敢行。
3月29日:丹いね子主催「第五回婦人文芸音楽会」開催。
5月25日:『男読むべからず』(如山堂書店)出版。「水銀事件」に言及。
5月18日:「親鸞上人降誕祝賀演芸会」開催。演目はいね子の独唱のほか「笑劇チャップリンの化けの皮」など。
11月3日:『女ロマンス』(国母社)出版。
化粧品「玉の肌」のコピー制作、曽我廼屋五九郎一座の脚本制作など小遣い稼ぎをする。

大正6(1917)年 22歳
夏:所沢で澤田中尉の飛行機墜落。なぜかいね子の母が狂乱し巣鴨病院収監。

大正7(1918)年 23歳
市会議員渡亀雄と結婚(またはパトロン?)。
3月:松弁合名会社(詳細不明)入社。大正14年まで籍を置く。

大正8(1919)年 24歳
春:渡亀雄に3万3千円を出してもらい、歌舞伎座の前に「いなづま自動車商会」開業。女運転手4人、女助手3人、使用人16人、自動車7台完備。
8月27日:山憲事件(6月6日、横浜の外米商、鈴木弁蔵を農商務省外米部の山田憲と共犯の男たちで殺害、バラバラにしてトランクに詰め新潟県長岡市の信濃川に捨てた事件)の参考人として警視庁に召還される。長時間取り調べられて神経衰弱になり、築地の山田病院に入院。
秋末:「いなずま自動車商会」を3万5千円で売却。

大正10(1921)年 26歳
3月:尼になると四国に出掛ける。一ヶ月後に戻り「一度尼になりし問題の丹いね子出演」と宣伝。

大正14(1925)年 30歳
松弁合名会社社員、帝劇音楽部嘱託、『青年雄弁』ほか二、三の雑誌編集に関係。

大正15(1926)年 31歳
1月:築地に料亭(鳥料理屋)「丹頂」オープン。

昭和2(1927)年 32歳
2月20日夜:カルモチン大量摂取にて自殺を企てる。「丹頂」に客が入らず借金が増え、某会社理事と恋仲になり熱海などで遊んだものの振られたため。

昭和3(1928)年 33歳
銀座四丁目に料亭(鳥料理屋)「丹頂」オープン。

昭和4(1929)年 34歳
7月:「丹頂」のマダムとして「ジュン・バー」マダム渡瀬淳子とともに話したレコード「カフェーから見た男の味」(コロムビア)発売。

昭和12(1937)年 42歳
2月:弟の篤が検事になったのを機に「丹頂」閉店。同時に、内縁の夫で元代議士の松井という男が満鉄に職を得たため渡満。敗戦を前に松井と死別。

昭和24(1949)年 54歳
法務府(現・法務省)から少年保護司の委嘱を受け青少年問題協議会目黒支部長などを歴任。

昭和25(1950)年 55歳
雑誌『経済往来』にて「日本の愉しかった頃」寄稿。

昭和26(1951)年 56歳
6月〜:日本医科大学付属病院調理師として14年勤める。

昭和40(1965)年 70歳
3月:日本医科大学付属病院調理師を定年退職。その後も嘱託として残り、看護婦や職員の相談相手となった(母方の祖父が同大の創立者だったため優遇された)。

昭和48(1973)年 78歳
12月20日:老人性肺炎のため勤務先病院で死去。

大和田茂『社会文学(2)』1998.2.「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」
青柳有美『女の裏おもて』「『悪魔の曲』のモデルいね子」「丹いね子は童貞なりや」
松本克平『私の古本大学』「丹いね子著『男読むべからず』」
照山赤次『名流夫人情史』「丹稲子女史 怪しい色のペパーミント」
『自動車及交通運輸』1922.2月号「日本で初めての女運転手ーに絡る悲喜劇ローマンス」
『自動車及交通運輸』1922.3月号「天下の丹稲子天下の奇怪事を語る」
『経済往来』1950.8月号「日本の愉しかった頃」
読売新聞記事

なんとなんとかなりの長生き、しかも戦後はまさかの「青少年問題協議会目黒支部長」に「日本医科大学付属病院調理師」という真面目なお仕事。
前半と後半にはっきり別れるような生き方です。
どうも前半生は原信子とのいざこざや、青年飛行家澤田中尉との失恋などで自棄になっていたのかもしれません。
そう考えると繊細で女性らしいいね子が見えてきますが……しかし個人的には前半生が好きだなあ。

「丹頂」は同じ名前で業態を変えて何度も開店しているようで、最初の築地の方は客が入らず閉店したらしく、商才に長けているという話にも疑問符がつきます。
まあ、つぶしてもどこからかパトロンを捕まえてオープンできるのはやはり商才のおかげか?
アイディアマンではあったようで、本邦初の女性運転手を売りにした「いなづま自動車商会」は目の付け所が面白いです。
いね子は雑誌に、女性運転手ならではのこととして、警察官の取締が甘くなるとか、タイヤがパンクしたときに周囲が手伝ってくれるとか、御祝儀が弾まれるとか得意げに語っている(『自動車及交通運輸』1922.2月号)のがちょっとどうかとも思いますが、今と違って女性の地位が低かった時代に生きていることを思えば話題性を高めるためには致し方ない。
そして辞めた理由も女性ならではの厄介事が多かったというから、同情できます。

それにしてもいね子の前半生は、当時のこの手の女性のパターン、新聞記者になる、舞台に立つ、店を開く、自殺未遂、出家の連続技を見事に決めてくれています。
『20世紀 破天荒セレブ』(国書刊行会)で取り上げた宮田文子も同じカテゴリですね。
ただ文子は、婦人記者をしたり武林無想庵と結婚していたわりには文学の方にあまり偏らなかった気がします。
いね子は文芸誌を創刊したり、芝居の脚本を書いたり、文学者とバトルしたり文筆方面にも片足を置いているのが特徴でしょう。

というわけで、次回は文学者・長田秋濤とのバトルを取り上げる予定です。