20160309


さてさて今回は、前回掲載した丹いね子年表でいうところの

大正4(1915)年 20歳
秋:文学者・長田秋濤とバトル勃発。

について書いてみようと思います。
実は、この件を国会図書館で検索してみてもそれらしき記事が見当たりませんでした。
とはいえ、例えば紅鳥生『女優総まくり』には

ツイ先達死んだ長田秋濤が日吉町のカフェー、プランタンでウヰスキーを飲ってゐると、其處へいね子がやつて来て、『妾(わたし)、丹いね子よ』。と自ら名乗りを上げて、秋濤の卓に腰をかけ、洋食だのペパーミントだのと散々飲喰ひをした揚句、『サア何處かへお供しませう。』とお膳を据えた。秋濤は多分高淫だらうと思つて自分の下宿の日比谷ホテルへ連れて行つて、いね子を一泊せしめた翌朝、後の祟りを怖れて幾干(いくらか)の包金を渡した。『そんなものを頂戴しては。』といね子は幾度も辞退したが、まあ然う云はずとホンの少々だからと押附けられて、いね子は漸く貰って包金を開けてみると、一圓札が僅(た)った一枚、有繁(さすが)のいね子も立腹してあんまりだと涙ぐんで抗議を申込むと、秋濤はすました顔をして曰く『はア、些(すく)ないですかね、一圓出せば吉原(なか)の大店の玉代ですがね。』

とあるし、青柳有美『女の裏おもて』には

(前略)ただ男の手であるとさへ見れば引っぱらるるままに何處へでも引っぱられて行きさうな女に、いね子は見へるのだ。見へるばかりでない。故長田秋濤の如きは、唯今日比谷ホテルに於て、カクカク致しての帰途なりとまで紅葉館に於ける宴会の席上、友人の前に堂々と声明までしたとの事だ。

とあります。
青柳有美のいうように、長田秋濤が友達相手に喋ったことが広まったのであれば、記事がないのもむべなるかな(もしかしたらゴシップとして小さな記事にはなったのかもしれないけど)。
それにしても、これ本当の話なのでしょうか。
だいたい、突然カフェーに現れて「妾(わたし)、丹いね子よ」なんて言うかねえ。
「『サア何處かへお供しませう」ってのもいかにも頭の中で考えましたって感じで芸がない。
なんだかなあと思っていたら、女性のおもしろ話の発信源として名高い雑誌『女の世界』(この雑誌についてはまた別稿でお伝えしたい!)大正4年10月号にいね子からの反駁「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」が載っているではないか。






ちなみにこの雑誌、青柳有美が主筆なので、いね子に「反論を書けば載せてあげるよ」くらい言ったのかも知れません。
当時はこういった公開状「○○君に与う」というのが大いに流行りました。
反論があれば次号に載せるという具合に、何カ月にも股がって往復することはザラで、途中でほかの人が加勢したり、反論を第三者が行ったりし始めて収拾がつかないこともしばしば。
有名人が読者の前で威信を懸けて論争するのですから、当然雑誌は売れて編集部はホクホク。
一種の炎上商法かもしれません。
今ならツイッターで数分で終わるような話も次号を待ってやりとりする時代だったのです。

さて、「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」の内容とは。
長くなりすぎたので、待て次回としましょう。