20160321



紅葉館のお絹(『兵庫風流帖』より)


今日は長田秋濤が紅葉館の座敷女中から女優にまで仕立てたお絹のお話。
まずは、彼女のざっくりとしたプロフィールから。

本名:池田きぬ(?) お座敷名:お絹(絹香?) 芸名:秋波子
明治15年12月17日- 明治39年8月2日
池田家は滋賀県彦根の旧家だが、維新後に京都に移って父が始めた呉服屋、湯のし屋などが失敗し没落した頃にお絹が生まれる。七歳で母と死別。十二歳のとき片山流の踊りの師匠に預けられ、父は足利へ落ち延びた。十五まで踊りや三味線の稽古をしたお絹は紅葉館主人に見込まれ座敷女中(紅葉館専属の芸者)となる。たちまち頭角を現し、とくに宮内大臣の土方久元伯爵に可愛がられたが、長田秋濤に目をつけられ、半ば強制的に紅葉館を飛び出すかたちとなる。その後、長田家で秋濤とその妻、お絹の三人で暮らしていたが、川上音二郎一座の舞台で舞うことに。「秋波子」の芸名で女優となり巡業などもしたが、一年後に病を得て逝去。享年23歳8カ月。


薄幸という言葉しかでてきませんね。
武士が維新後に慣れない商売をして失敗することを「士族の商法」といいますが、それを地で行くような貧乏暮らしのなか、男手一つで娘を育てるのは容易ではく、父親が娘を芸者に出すのはまあ仕方ないこと。
紅葉館に拾われたというのも、その辺の置屋の芸者になってしのぎを削るよりある意味幸せなことだったかもしれません。




ここで紅葉館について少し解説しましょう。
鹿鳴館のできる二年前の明治十四年、海外から来日した貴賓をもてなす社交場の必要にせまられた政財界のために、渋沢栄一、大倉喜八郎が指揮をとって建設した高級料亭が紅葉館。
建材からしつらえから庭園から当代随一の粋を集めた4600坪もある壮大華麗な施設で、場所は芝、今の東京タワーの場所にありました。
会員制で、入り口には「雑輩入るべからず」とあったというから恐れ入ります。
芸者は呼ばず、お抱えの座敷女中たちに余興から接待からさせるのが決まりで、支配人の野辺地尚義が全国から美人をスカウトして芸事を仕込ませたといい、最盛期の明治30〜35、6年には5、60人が在籍していました。
客はセレブ、女中は美人といえば色恋はつきもの。
立憲改進党議員の高田早苗(後の早大総長)が妾にした中沢あい、後にグーテンホーフ伯爵と結婚した青山みつ、紅葉館から名をとったといわれる作家尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』のお宮のモデルとなった須磨子、みな紅葉館の座敷女中でした。

さて、お絹が入った明治32年は紅葉館の最盛期に当たります。
政治家、文士、華族と一流の貴顕紳士が群れなすなか、お絹をことさら贔屓にしてくれたのは宮内大臣土方久元、毎晩二頭立て馬車を駆ってやって来てはお絹の膝を枕によさこい節をうなっていたといいますが、ふたりの仲がどこまでだったかは神のみぞ知る。
そこへ登場したのが長田秋濤であります。

秋濤はフランス帰りでハイカラを気取っており、紅葉館のことは嫌っていたといいますが、友人で衆議院書記官長の林田亀太郎にたまたま誘われて足を踏み入れ、お絹を知ります。
秋濤は日を置かずやってきては例によって強引に口説きますが、お絹は冷ややか。
既婚者に本気になったところでお妾さんになるのが関の山だからです。
しかし、つれないそぶりが余計に秋濤の恋心に火をつけ、借金をしてまで通って強引にせまり、とうとうお絹を自分のものにします。
そしてある夜、宴席にまぎれて紅葉館を出、秋濤の家で妻妾同居と相成るのですが、それには驚きの経緯がありました。

実は、お絹を煽動したのは秋濤の妻だったそうなのです。
当時、露探疑惑に遭い失意のどん底にあった秋濤は、仕事も減り、友人も離れて自殺未遂すら考えたといいます。
にも関わらず、紅葉館通いは止められず借金だけが嵩む日々。
この状況に妻は、この際お絹を家に引き取って夫の精神面、財政面を救ってくれないかと手紙を出したというのです。
秋濤の妻は岐阜県知事小崎利準の娘で仲子といい、下田歌子が仲人をつとめる家柄の出で、時々小説もものする賢夫人の聴こえ高い女性でした。
よくよく考えての結論でしょうが、さすがに非常識な申し出のようにも思えます。
長田家に来たお絹と仲子は仲良くやっていたようですが、仲子の親類や同窓生などは不倫な家庭だとして絶交する者もあったようです。

さて、そんなある日、秋濤の友人の川上音二郎がお絹を舞台に出さないかと言ってきます。
その頃、音二郎の一座は秋濤が翻案したコペー作『王冠』の稽古をしていましたが、序幕の饗宴の場面で「鶴亀」を舞うシーンがありました。
そこで、貞奴とともにお絹に舞ってもらえないかというのです。
あの美人で有名な紅葉館のお絹、噂の秋濤と恋仲になって姿を消したお絹が女優となって舞台に出るというのだから話題性は十分。
お絹は出るに当たって秋濤から秋濤と同じ意味の秋波子という芸名を付けられました。
『王冠』は明治38年8月14日に開演。
舞台は熱狂の渦に巻き込まれ、お絹に「紅葉館!」という掛け声が飛んだといいます。
一座は『王冠』を引っさげ、関西を周り中国地方、九州と巡業して一年ぶりに大阪に戻ってきました。
連日連夜の興行で疲労がたまっていたお絹は、咳が出るようになり、真っ青な顔色のまま舞台に立っていましたが、ある日楽屋で倒れて病院に運ばれ、急性肋膜炎と診断されました。
天下茶屋の家で秋濤、仲子、お絹の共同生活が再び始まりましたが、お絹は寝たきりになり、春になって病状が悪化。
本人の希望で故郷の京都烏丸の親戚方に身を移し、八月二日の昼前に亡くなったといいます。

思えば、女優にだってなりたかったわけではなく、長田家の経済状況を考慮して受けた仕事で、まったく秋濤のために人生を犠牲にしたようなお絹です。
涙なしに語れないとあって、村松梢風なども「明治美人傳 紅葉館お絹」という読み物を雑誌『富士』に掲げています(村松梢風はほかに『川上音二郎』(上)(下)でもお絹に触れています)。
秋濤はお絹の死で相当落ち込んだといいますが、そのつらさを神戸の花隈辺りで慰めたものか、その後中検のぽん太という芸者に夢中になり、フランス製のドレスや香水を取り寄せ、翻訳中の『椿姫』の主人公を仮託したと言われています。



中検のぽん太(『兵庫風流帖』より)

まもなくふたりで料亭吉田屋を経営、一枝という娘も生まれましたが大正3年に亡くなりました。

次回は再び丹いね子に戻ります。
いね子がしつこく言い募る、原信子との確執と「水銀事件」について。
乞う御期待。


九鬼逸郎『兵庫風流帖』「長田秋濤の女歴」
長谷川時雨『美人伝』「紅葉館のお絹」
村松梢風『川上音二郎』(下)
村松梢風「明治美人傳 紅葉館お絹」『富士』1949.11