20160322

「問題の女」原のぶ子 丹いね子(『女の世界』より)



久しぶりに丹いね子に話を戻しましょう。
いね子と原信子が東京音楽学校在籍中に起こったとされる、俗にいう「水銀事件」。
内容についておさらいしておくと、大正元(1912)年12月5日、原信子に誘われ麻布の龍土軒にて振る舞われたペパーミントリキュールを飲んだいね子が中毒性急性咽喉炎となり、帝大病院に入院→12月末に新聞各紙にいね子の中傷記事(「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」など)が出たため、その日の夕方に病院を抜け出していね子自ら新聞社に汚名を雪いだ、という事件であります。
騒動の経緯を知りたいと思っていたところ、実際の記事を見つけました。
まずは、いね子に対する中傷記事。
大正元(1912)年12月30日の「東京毎夕新聞」に載った「女色魔の悪辣 原信子も被害者」であります。




長いので要約すると

・上野音楽学校予科生で下渋谷千七百五十五番の家から通学している丹稲子は、同性異性の区別なく金品を捲き上げる不良女子である。
・府立第一校等女学校に在学するも一年で退学、その後日本郵船会社の女給となり、四月から上野音楽学校に姿を現した。
・原信子には「あなたの教えを請うて音樂家になりたい」とか「原さんはわたしの姉様よ」などと言って近づき、信子の着物、帯、髪飾りを借りては質入れをしたり売り飛ばしたりし、信子が命より大切にしている上海で顧客に買って貰ったダイアモンドの指輪も捲き上げた。
・信子が稲子の正体に気づいた時には、稲子は既に信子の友人や先生にある事ない事吹聴していた。
・また、稲子は京橋尾張町二丁目にある自動車店山口勝太郎の弟、国一から数千円を絞り取り、店員用の女夏帯まで取った。そして尾張町の兄の店に押しかけては国一を引っ張り出して新橋の待合に連れ込むので家では交際禁止にしたが、気にせずやってくるので門前払いをしている。
・九月頃には御大葬の特派員としてイタリア人新聞記者のシモニー(41歳)が来日、稲子は音楽家という触れ込みで近づき、日比谷ホテルに連れ込んで二百余円を捲き上げた。
・更に慶応大生の佐本某(22歳)を新橋のカフェーに連れ出し色仕掛けをしたが失敗、本郷須賀町十番地内田某(24歳)という別の慶応大生を誘拐しようとしている。

というもの。
ダイアの指輪、出てきましたねえ。
根も葉もない噂なのかもしれないけれど、それにしても登場人物が妙に具体的。
そして日本郵船の女給なんていう不思議な経歴も出てきました。
この記事は「婦女通信」の某氏を通じて原信子が投書したものである事が後日分ったといね子は言っています(『名流夫人情史』)。
さて、それに対するいね子の反論は明けて大正二年一月七日に出ました。




本人は記事が出た夕方に新聞社に乗り込んだと言っていましたが、掲載は一週間後です。
タイトルは「呪はれた少女の悲叫 =声楽の才媛丹稲子本社に来る=」。
ほんの一週間前には「女色魔」と呼んでいたいね子を「声楽の才媛」とは手のひら返しもいっそ清々しい。
内容は、おなじみの龍土軒の一件を語ったもの。
いままで出てこなかった話としては、もともと三光堂でレコードを吹き込んでいたのは原信子であったこと、それが何かのことから両者仲違いになり、信子は上海に行ってしまったため、いね子に録音のお鉢が廻ってきたことが語られています。
さて、そうなったら原信子も黙ってはいません。
翌日「原信子來状 近く是非を断せん」という記事が出ました。



それによると、まず三光堂と信子が仲違いをしたというのは事実無根であること、また11月3日には確かにいね子を龍土軒に誘ったが、その後11月下旬まで信子宅で声楽を教えており、声に何等の異常もなかったこと、三光堂や学校に尋ねればわかることであると、真っ向から反対する内容でした。
(それにしても龍土軒は11月3日だったのですかね、いね子は後年12月5日と書いていたのだけど記憶違いでしょうか)
どちらの言い分が正しいのかわからず、記者も「アア何が非か本社は頓(やが)て燃犀の判断を以て其眞相を發(あば)き来らん」と締めています。

今のところ見つけた記事はここまで。
いったいどこで「水銀事件」という名がついたのかなど分かり次第、また御報告します。
なお、友人より貴重な示唆をいただきました。
いわく、いね子の名字である「丹」は水銀(厳密には硫化水銀からなる赤い鉱物)の意味があるので、そこから「水銀事件」と名付けられたのでは、という仮説。
これも資料を探せば追々解明できるかと思います。